川端康成 家系・親族

川端康成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 05:59 UTC 版)

家系・親族

各参考文献の家系図、年譜、経歴内の情報に拠る。

祖先

鎌倉幕府第2代執権北条義時鎌倉幕府初代将軍源頼朝正室北条政子の弟)、第3代執権・北条泰時の子孫で、泰時の孫(泰時の九男の子)・川端舎人助道政が川端家初代で康成は31代目に当たる700年続く家系である[29][35][37][38][39]

親族

祖父・川端三八郎(庄屋、戸長、易学研究)
天保12年(1841年)4月10日生[注釈 41] – 1914年(大正3年)5月25日没
吉川定右衛門(?–1849年没)とマサの次男として出生。兄は直蔵(?–1873年没)。異母妹はシュウ(?–1915年没)。祖父は吉川源右衛門。
吉川家は、現在の大阪府茨木市西河原にある旧家で、代々二千石の造り酒屋(自分の田で収穫した酒米で醸造)。
祖母・峯は川端家出身で、川端家27代目・川端三右衛門幾康(1785年生-1861年没)の姉。幾康の長男で川端家28代目・時次郎(1817年生-1840年没)が天保11年(1840年)7月13日に24歳で死去したため、峯の幼い孫・吉川三八郎が川端家に養子に貰われ、幾康の長男として入籍し、文久元年(1860年)1月11日に川端家を相続。ちなみに幾康と峯の弟・川端玄了は、黒田家のかもと結婚し、2代目・黒田善右衛門となる。
川端家の原籍地は、大阪府三島郡豊川村大字宿久庄小字東村11番屋敷(現・大阪府茨木市宿久庄1丁目11-25)。檀那寺の極楽寺は、もとは如意寺の一坊舎だった。
三八郎は、嘉永7年(1854年)頃に見習庄屋となり、安政6年(1859年)に庄屋となる。明治になってからは戸長を務めるが、の栽培や寒天製造などの事業に失敗して、田や山を二束三文で売る。易学に凝り、家相論「講宅安危論」を出版しようとしたが叶わず。漢方薬研究もし、「東村山龍堂」という屋号で内務省から許可を得た数種類の漢方薬を販売しようとしたが、薬包紙を印刷したまでで立ち消えとなる。雑記「要話雑論集」もある。
檀那寺(極楽寺)の住職・服部峯雲和尚から和歌を学び、「萬邦」と号していた。随想集「要話雑論集」の原稿や、「石堂」と号して描いた画手本を遺している。
三八郎は、黒田孝(1837年生-1860年没)と結婚し、長男・恒太郎を儲けるが、まもなく孝が次の出産時に嬰児と共に死去したため、孝の妹・カネを後妻とする。カネとの間に4人の子(栄吉、富三郎、ほか)を儲ける。1871年(明治4年)生れの富三郎は1878年(明治11年)に夭折(7歳没)。
祖母・カネ
天保10年(1839年)10月10日生 – 1906年(明治39年)9月9日没
旧姓は黒田。2代目・黒田善右衛門(玄了)(1784年生-1852年没)とかもの次女。4人姉弟(孝、カネ、民三郎、トミ)の2人目。弟・民三郎は3代目・黒田善右衛門。妹・トミは上村家に嫁ぐ。
黒田家は、大阪府西成郡豊里村大字3番(現・大阪市東淀川区豊里6丁目-2-25)の資産家。「黒善」(黒田善右衛門の二字から)と呼ばれ、広壮な家を構える大地主。現在地は関西電力の寮がある[375]
カネの母・かもは黒田家出身で、父・玄了は川端三平の次男で、黒田家に婿養子となった人物。玄了と川端三右衛門幾康(三八郎の養父)の弟。
カネは、姉・孝の死去により、川端三八郎の後妻となる。最初の子は生後すぐ亡くなり、第二子の女児は6歳で夭折。第三子が栄吉で、第四子の富三郎は7歳で夭折。
父・川端栄吉(医師)
1869年(明治2年)1月13日生 – 1901年(明治34年)1月17日没
川端三八郎とカネの次男(異母兄・恒太郎が長男)。別名は「良仁」。
東京市本郷区湯島の医学校・済生学舎(現・日本医科大学の前身)を卒業。1891年(明治24年)5月に医術開業試験に合格し、開業医の資格を得る。
大阪府東成郡天王寺村桃山(現・大阪市天王寺区筆ヶ崎)の桃山避病院の勤務医となり、のちに難波北詰(現・北区若松町)の高橋医院の副院長の経歴あり。肺を病んでおり虚弱であった。日本橋区西河岸町の西宮淳園塾にいたとされ、浪華の儒家寺西易堂に学び、漢詩文人画を習った。「谷堂」を号した。
兵役免除の特典(長男は免除される)を利用するため一時、名目上の養子で宮本姓としていたが、1894年(明治27年)に異母兄・恒太郎の死去により、恒太郎の妻であった黒田ゲンと事実上の夫婦となり長女・芳子を儲けたため、1896年(明治29年)6月5日に川端姓に戻った。黒田ゲンは黒田分家を廃家とし、1898年(明治31年)7月9日に川端栄吉とゲンは結婚入籍。その後、長男・康成を儲ける。
栄吉は、1897年(明治30年)9月1日に、大阪市西区北堀江下通6丁目第30、31番屋敷に医院を開業。翌1898年(明治31年)5月に東区安土町2丁目97番屋敷(現・中央区安土町)に転移。同年9月に北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋)に転移。その後、西成郡豊里村大字天王寺庄182番地(現・東淀川区大道町)に転移し、その地で肺病(結核)のため死去(32歳没)。戒名は「智光院礼誉義岳良仁禅定門」。
母・ゲン
元治元年(1864年)7月27日生 – 1902年(明治35年)1月10日没
黒田家出身。3代目・黒田善右衛門(民三郎)(1841年-1880年)とエンの長女。5人兄妹(秀太郎、ゲン、タニ、ノブ、アイ)の2番目。川端カネとは、伯母の関係となる。
1887年(明治20年)に分家し、1889年(明治22年)10月に川端恒太郎(川端家の長男)と結婚するが、恒太郎の死去により、その異母弟・川端栄吉と再婚。一男一女(芳子、康成)をもうける。その後、夫・栄吉と同じ結核で死去(37歳没)。
姉・芳子
1895年(明治28年)8月17日生 – 1909年(明治42年)7月21日没
川端栄吉とゲンの長女。両親の死後、母親のすぐ下の妹・タニの婚家・秋岡家に預けられ、弟・康成と離ればなれとなる。タニによると、素直でおとなしく、控え目な性格であったとされる[23]。1909年(明治42年)7月16日に高等小学校の下校後、熱病にかかり、5日後に心臓麻痺のため13歳で夭折。
伯父:恒太郎(村長)
安政5年(1858年)7月5日生 – 1894年(明治27年)4月14日没[注釈 42]
川端三八郎と孝の長男。栄吉の腹違いの兄。生後間もなく実母・孝が死去し、叔母のカネが継母となる。改名前の名は「常太郎」。
1885年(明治18年)5月、27歳の時に、『清国道中里程図誌』という書物を二酉楼から発刊した。
家督を異母弟・栄吉に譲り、黒田ゲンと1889年(明治22年)10月10日に結婚。黒田家に入夫。西成郡豊里村3番の村長となる。ゲンとの間に子供のないまま35歳で死去。
伯父・黒田秀太郎
文久2年(1862年)3月4日生 – 1918年(大正7年)4月没
ゲンの兄。3代目・黒田善右衛門(民三郎)とエンの長男。5人兄妹(秀太郎、ゲン、タニ、ノブ、アイ)の1番目。
前妻との間に、長男・忠義を儲ける。忠義は松本家の養子となり、茶舗松本軒の主人となる。後妻・コト(旧姓・若林)との間には、二男四女(ハナエ、タマ、秀孝、伝治、シズ子、テイ)を儲ける。次男・伝治(1901年生)は、梶井基次郎と中学の同級生で、その後、大阪高商へ首席で入学。
複数の女性(妾)との間の庶子婚外子)には、ソノ、マス蔵、豊蔵、アイ、定二郎がいた。
従兄・黒田秀孝
1896年(明治29年)11月 – 1969年(昭和44年)6月28日没
黒田秀太郎とコトの長男。6人姉弟(ハナエ、タマ、秀孝、伝治、シズ子、テイ)の3番目。ゲンの
1920年(大正9年)1月16日に権野富江(1896年生-1983年没)と結婚し、三女(和子、昭子、政子)を儲ける。妻・富江は、勝雅の妹。勝雅は小寺家の養子となる。
秀孝は、酒は全く飲めなかったが食道楽着道楽で、毎晩のように人力車で大阪の北新地に遊びに行っては帰る遊び人[30]。よその女に産ませた男児・鬼追明夫もいる。鬼追明夫は、のち大阪市立大学を卒業し、弁護士となって日弁連会長、整理回収機構社長を務める。
秀孝の遊蕩や投機の失敗で「黒善」は没落。1925年(大正14年)に家屋敷を手放し、西成区田畑通2丁目11番地へ転居。
富江と1935年(昭和10年)頃に別居し、三女・政子は富江が連れていった。1939年(昭和14年)に富江と離婚後、秀孝は1945年(昭和20年)に再婚する。再婚相手のスミ子は阿倍野区阪南町2丁目でアパート常盤荘を営む。
従姉・本川タマ
1892年(明治25年)1月5日 – 1914年(大正3年)9月25日没
黒田秀孝の2番目の姉。通称は「玉子」。が上手で、行く先でよく琴歌を所望され、近所の人たちから「三番小町」と言われるほどの美人だった[376]
1913年(大正2年)1月13日に、兵庫県姫路市小利木町出身の久留米師団騎兵中尉・本川治郎に嫁ぎ、久留米市に居住。本川治郎は、康成の習作『H中尉に』に描かれた人物。タマが姫路の本川の本家に来ると、その美貌を見るため、近隣の人々が黒山をなして集まったと言われている[376]。タマは夫の出征中に、胎児(2人目の子)と共に22歳で死亡。康成はその死を悼み、『白骨を迎ふ』『弔詩』を書いた。
康成は幼い頃、女学生だったタマに手を引かれて、その白い〈おとがひ〉を下から見上げた記憶や、一緒に住吉に詣で反橋を見たことを自伝的小説に書いており[25][43]、タマのイメージは、他の作品(『花のある写真』『反橋』『住吉』『山の音』など)にも生かされている[2][376][377]
叔母・秋岡タニ
慶応3年(1867年)生 – 1925年(大正14年)1月5日没
ゲンの妹。3代目・黒田善右衛門(民三郎)とエンの次女。5人兄妹(秀太郎、ゲン、タニ、ノブ、アイ)の3番目。
秋岡義一(1863年生-1925年3月31日没)に嫁ぎ、二男一女(義雄、義愛、俊子)を儲ける。秋岡家は大阪府東成郡鯰江村大字蒲生35番屋敷(現・大阪市城東区蒲生)にある素封家。長男の義雄は早世。義一には庶子(貞子、良子)もあった。
秋岡義一は、1888年(明治21年)に、私立天王寺養蚕伝習所を設立し、翌年1889年(明治22年)、27歳で鯰江村会議員から村長となり、1891年(明治24年)に東成郡選出の大阪府議会議員、1894年(明治27年)に衆議院議員に当選。その後1912年(大正元年)に京阪電鉄監査役、1914年(大正3年)に議員を終えて、1919年(大正8年)に大阪送電株式会社監査役、1922年(大正11年)に北大阪電鉄取締役社長となる。
従兄・秋岡義愛
1890年(明治23年)生 – 1972年(昭和47年)2月25日没
秋岡義一とタニの次男。芝中学慶應義塾大学理財科卒業。作家・南部修太郎と友人だったため、康成に南部を文通相手として紹介する。
原田元治郎(実業家)の娘・原田綾子と結婚し、原田綿織機に勤務。二男二女(義彦、達子、義之、瑛子)を儲ける。次男・義之(毎日新聞記者)は、康成のノーベル文学賞授賞式に同行した。康成は当初、次女・瑛子を養女に貰いたいと考えていた[378]
従姉・秋岡俊子
1894年(明治27年)生 – 没年不詳
秋岡義一とタニの長女。義愛の妹。三輪田高等女学校を卒業。康成の紹介で、西川義方と再婚。
伯母・田中ソノ
安政5年(1858年) – 1942年(昭和17年)10月24日没
ゲンの異母姉。川端家の養女となり、川端家から、大阪府豊能郡熊野田村(現・豊中市熊野)の田中九兵衛に嫁いだ。九兵衛との間に、九一郎、岩太郎らを儲ける。1892年(明治25年)に九兵衛が死去し、未亡人となる。長男・九一郎が相場で失敗し、家を潰したために故郷を追われ、東京の次男・岩太郎と同居する。
康成の祖母・カネの死後しばらく、康成と三八郎の面倒を見ていた。康成は、この伯母を慕っており、『父の名』(1943年)で描いている。
従兄・田中岩太郎(歯科医)
生年月日没年不詳
田中ソノの次男。上京し、東京府浅草区浅草森田町11番地(現・台東区浅草蔵前)で歯科医を開業。母が未亡人となったため、母を自宅に呼び同居。この家に康成は居候しながら受験勉強し、第一高等学校へ入学。
岩太郎は、康成と同年齢の女性・政子(実家は横浜)と結婚し、1918年(大正7年)末頃に長男・洋太郎をもうける。
叔母・小寺ノブ
生年月日没年不詳
ゲンの妹。3代目・黒田善右衛門(民三郎)とエンの三女。5人兄妹(秀太郎、ゲン、タニ、ノブ、アイ)の4番目。
小寺秀松と結婚するが、子供のないまま間もなく死去。小寺秀松は後妻・志津を迎えるが子供が生れず、権野家から勝雅を養子にもらう。権野勝雅の妹は富江。富江は黒田秀孝と結婚。
叔父・山田豊蔵(金箔師)
1876年(明治9年)1月3日生 – 1951年(昭和26年)没
ゲン、ソノの異母弟。1890年(明治23年)1月18日に、大阪市東区南本町の金箔師・山田甚助の養子となり、五世山田甚助となる。その後、1902年(明治35年)7月1日に山田家から協議離縁するが、1916年(大正5年)に再び、山田家と養子縁組する。
浅草北清島町37に居住。風変りな叔父として、『父の名』(1943年)、『大黒像と駕籠』(1926年)で描かれている。歌沢に凝り、「山田金箔児」の名でレコードを出していた頃は、熱海市天神町に居住。長男・豊明(1919年生-1945年没)は、フィリピンで戦死。
分家・川端松太郎
元治元年(1864年)9月17日生 – 1920年(大正9年)5月9日没
3人兄妹の長男。妹・シヨと弟・末次郎がいる。子はキヌエ。何代か前の人物が川端家からの養子であるため、川端姓となる。川端本家と道を隔てた隣の家に居住。
川端栄吉とゲンの葬儀の際に、押えの焼香をした人物。康成が茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)入学の際の身許保証人
死後は、娘の川端キヌエ(婿・義一と結婚)が川端本家の墓を管理。キヌエは義一との間に、誠治をもうける。
分家・川端岩次郎
1874年(明治7年)6月11日生 – 1954年(昭和29年)11月3日没
川端松太郎の妹・シヨの婿。シヨとの間に二男(国夫と種次郎)を儲ける。
三八郎の死後に、川端本家の家屋敷を買う。たった1人残された本家跡継ぎの康成が、黒田家と秋岡家からの仕送りの他、緊急の金(『新思潮』刊行や、伊藤初代関連の岐阜や岩手への旅費)が必要時に援助。
次男・種次郎の嫁・富枝は、康成に関する資料や書簡、川端家の家系を記した私家版を出版。
妻・川端秀子(戸籍名:ヒテ)
1907年(明治40年)2月8日生 – 2002年(平成14年)9月7日没
青森県三戸郡八戸町十六日町19-2(現・八戸市)の出身。旧姓は松林。松林慶蔵(1875年-1924年)の次女。5人兄妹(桂二、長女、秀子、君子、喜八郎)の3番目。八戸高等女学校卒業。
父・松林慶蔵は当初は鶏卵の商いをしていたが、子供が成長した後は消防団の小頭の仕事を務め、1924年(大正13年)5月16日に、隣町の火事の消防の際に死去。50歳で殉職。
父の死後、秀子は東京府豊多摩郡千駄ヶ谷大字原宿の並木炭店に務める兄・桂二を頼りに上京し、お手伝いとして奉公先で働いていたが、なかなか約束通りに夜学に通わせてもらえず、文藝春秋の社員募集に応募したところ、そこの面接社員の口ききにより、菅忠雄(『オール讀物』編集長)の家で働くことになる[143]。康成の同人でもある菅忠雄はその頃、最初の妻と原宿に住んでいたが、その後に新宿区市ヶ谷左内町26へ転居。1925年(大正14年)5月に、そこで川端と秀子は出会う[143]
養女・川端政子(通称:麻紗子)
1932年(昭和7年)2月23日生 –
黒田秀孝と富江の三女。現・大阪市住吉区旭町1丁目で生まれた。姉は和子、昭子。母・富江の旧姓は権野。権野家は代々、代官を務めた家。
1935年(昭和10年)頃から、母・富江は3歳の政子を連れて別居し、その後に離婚。富江は心臓弁膜症で病弱であったため、1938年(昭和13年)頃、川端康成に政子を養女に出す希望を打診。
1943年(昭和18年)5月3日に、康成と秀子の養女となり、同年に藤沢市の片瀬乃木国民学校の5年に編入。学制改革に伴い、校名が湘南白百合学園と改められ、その高等女学校に進学し、1951年(昭和26年)3月に湘南白百合学園高等学校を卒業。その後は、茶道ピアノなどの習い事をし、日本舞踊吾妻徳穂を師とした。
川端の担当医師・栗原雅直の紹介で、1967年(昭和42年)7月25日に山本香男里と結婚し入籍。川端家を継ぎ、一男一女(あかり、明成)をもうける。
婿・川端香男里ロシア文学者名誉教授
1933年(昭和8年)12月24日生 –2021年(令和3年)2月3日没
旧姓は山本。英文学者山本政喜(柾不二夫)の三男。5人兄弟(阿母里、ひかり、思外里、香男里、みどり)の4番目。妹は若桑みどり
東京大学教養学部教養学科フランス文科を卒業し、同大学院人文科学研究科比較文学比較文化専攻進学。1960年よりパリ大学に留学。1963年に北海道大学文学部講師、1965年よりカレル大学モスクワ大学に留学。
1967年(昭和42年)7月に川端政子と結婚し、婿養子となる。川端康成記念会理事長を務める。
孫・あかり
1969年(昭和44年)1月29日生 –[20][31][33]
政子と香男里の間に生まれた長女。
孫・明成
1971年(昭和46年)10月9日生 –[20][31]
政子と香男里の間に生まれた長男。



注釈

  1. ^ ゲーテ・メダル(Goethe-Medaille/Goethe-Plakette)は様々な団体のものがある。川端に贈られたのは「フランクフルト・アム・マイン市のゲーテ・メダルドイツ語版」。また「Plakette」とは、メダルというよりは小さなバッジである。
  2. ^ この「保身」という文字は川端の生活信条となり、日記の随所に出てくる[16][18]
  3. ^ 小笠原義人の実家は京都府京都市下京区上嵯峨村(現・右京区嵯峨野)で、一家は大本教信者であった[25][67]。小笠原義人は1900年(明治33年)11月11日生れ。五男三女の3番目で長男。祖父・弥太郎義信は紀伊藩士(高天神小笠原家[68])。大祖は清和源氏源義家の弟・新羅三郎義光で、小笠原家の鼻祖は、長清であるという[65]。義人の父・義之は紀伊藩士・森儀三郎の二男で、義信の養子。母・ヒサは加賀藩士・御納戸役の飯森薫の長女である[65]
  4. ^ この「師の柩を肩に」は、のち1927年(昭和2年)に、「学窓ロマンス 倉木先生の葬式」と改題し、『キング』3月号に再掲載された[18][73]
  5. ^ 川端は親戚の川端松太郎に、10月31日付で修善寺温泉、11月2日付で湯ヶ野温泉など旅先から絵葉書を送っている[18][49][80][81]
  6. ^ 川端は、中学の入学試験の体格検査や、病院で右眼の視力がよくないことに驚いていたが[85]、眼底に結核の病痕があることを40歳頃に医者から教えられた[25][32]
  7. ^ その後も川端は、今東光の家に度々招かれて、霊談義を聞くことがあったようで、〈テレパシイの話〉〈霊知学の話〉を、〈面白き話と思ふ〉と日記に記している[90]
  8. ^ この『ちよ』に関連する作品『処女作の祟り』では、処女作『ちよ』を書いたために、登場人物の故郷の村の男〈千代松〉が祟られ、〈ちよ〉という名前の女性に〈僕〉が失恋する話が描かれている[94]。この〈千代松〉の怪談挿話は架空であると川端は言っているが、実在人物かは明確ではない[18]
  9. ^ 平出修の妻の甥・平出実の元妻であったマダム・山田ます(1887年生まれ)は、帝大生の福田澄夫と男女関係となり、福田が台湾銀行に入社するのに同行して行った[17][98]
  10. ^ 伊藤初代の父親・伊藤忠吉は農家の長男だが、土地の風習で長子の姉が婿養子を迎えて家を継ぎ、忠吉は同村のS家に婿入りして二児を儲けたが離婚し、職を求めて福島県若松市(現・会津若松市)へ行った。そこで大塚サイと知り合い初代を儲け、再婚して学校守り(用務員)となり二女・マキを儲けた[99]。初代は、1906年(明治39年)9月16日に福島県若松市川原町25番地で出生。母・サイが1914年(大正3年)に死去すると、翌1915年(大正4年)春、9歳で叔母(母の妹)に預けられた。3歳の妹・マキの方は父・忠吉に連れられ郷里の岩手県江刺郡岩谷堂に行き、忠吉はその地で小学校の用務員となる[100]。叔母の家の初代は、小学校も中退させられて上京し(祖父の大塚家が上京したため)、子守として奉公に出されて他家を転々とした後、カフェ・エランのマダムの山田ますが身許引受人となって、そこで働き出した[96][97][99]
  11. ^ 1920年(大正9年)までは大学、高校とも、学年度は9月11日に始まり、7月10日に終わった[102]
  12. ^ 鈴木彦次郎によると、同人誌を企画し、皆で「湯島サロン」という店で話し合っているところへ、菊池寛芥川龍之介らが偶然やって来て、その場で菊池から『新思潮』を譲ってもらったとされ、翌日に菊池宅を訪問したとされている[79]
  13. ^ 初代に惚れ込んだヤクザな常連客が、自分の女に横恋慕する奴だと川端を名指し、撲るとか斬ると言っていたのを知った今東光は、相棒の宮坂普九と一緒に、「其奴を殴り倒し二度と川端に対して手を出せないように仕様と、実は短刀まで用意した」と語っている[95]
  14. ^ 石濱金作が1923年(大正12年)10月に、カフェ・エランの前の煙草屋の主婦から聞き出した情報では、伊藤初代は、岐阜県稲葉郡加納町にいた時に、ある者に犯されて自暴自棄になって家出してしまったとされる[17][56]。この人物が誰なのかは、伏字のない川端の日記によると、〈西方寺にて僧に犯されたり〉となっている[116]。2014年(平成26年)に、この強姦事件が事実であったことが、伊藤初代の息子の桜井靖郎により確認されている[117]。桜井靖郎は姉の珠代から、この母の秘密の事実を聞いていたという[117]
  15. ^ 伊藤初代との体験を元にした作品には、『南方の火』『篝火』『非常』『霰』『彼女の盛装』『新晴』『日向』『咲競ふ花』『生命保険』『弱き器』『火に行く彼女』『鋸と出産』『写真』『青い海黒い海』『丙午の娘讃』『明日の約束』『伊豆の帰り』『合掌』『大黒像と駕籠』『犠牲の花嫁』『父』『五月の幻』『入京日記』『処女作の祟り』『遥か昔』『西国紀行』『母国語の祈祷』『真夏の盛装』『二重の失恋』『空の片仮名』『水仙』『父母への手紙』『抒情歌』『雨傘』『見知らぬ姉』『父の十年』『浅草に十日ゐた女』『化粧と口笛』『姉の和解』『母の初恋』『再婚者』『日も月も』『離合』『美しさと哀しみと』『水郷』『途中下車』『時代の祝福』がある[6][18][19][69][114][119][120]
  16. ^ 『文藝時代』の同人は、伊藤貴麿石濱金作、川端康成、加宮貴一片岡鉄兵横光利一中河与一今東光佐佐木茂索佐々木味津三十一谷義三郎菅忠雄諏訪三郎鈴木彦次郎岸田国士、南幸夫、酒井真人、三宅幾三郎稲垣足穂であった[9][131]。川端は、牧野信一も同人に加えたかったが、菅忠雄などが反対ぎみの意向を示している[132][133]。『文藝時代』の創刊翌月、『文藝春秋』11月号に載った「文壇諸家価値調査表」(直木三十三が作った文士採点表)をめぐって憤慨した今東光が[134][135]、翌1925年(大正14年)4月に脱退し[131]、その後『文党』に行った[91][136][137]。横光利一も文士採点表に憤慨し、その掲載を許した菊池寛と『文藝春秋』に対して読売新聞に投書を送ったが、川端になだめられて一緒に読売新聞社に行き、その速達を返してもらったという一件があった[131][138]
  17. ^ 前年1925年(大正14年)の秋に文藝日本社から処女作品集『驢馬に乗る妻』が刊行予定だったが、出版社の破産で実現しなかった[145]
  18. ^ 熱海を舞台にした作品には、『椿』『死者の書』『女を殺す女』などがある[10]
  19. ^ ちなみに、逃げる泥棒を川端が玄関まで追ったが、梶井基次郎は怖くて、秀子夫人から呼ばれても部屋から下りて来られなかったという[143][156]
  20. ^ その後、支払わなかった家賃の催促が家主から無かったため、そのままになったが、家賃を遺して退去したのは、この熱海だけであるという。〈商人を踏み倒したことはなかつた〉と川端は語っている[128]
  21. ^ 浅草を題材とした「浅草物」には、続編の『浅草祭』や、『踊子旅風俗』『日本人アンナ』『「鬼熊」の死と踊子』『白粉とガソリン』『鶏と踊子』『浅草日記』『化粧と口笛』『浅草の姉妹』『浅草の九官鳥』『妹の着物』『二十歳』『寝顔』『虹』『田舎芝居』『夜のさいころ』などがある[10][163]
  22. ^ この年に大宅壮一の妻・愛子が死去したため、大宅の家にお手伝いに来ていた青森県八戸市出身の少女・嶋守よしえ(小学校5年生)を川端宅で引き取ることとなり、よしえのきちんとした身許保証人になるため夫婦の籍を入れたとされる[169]。のちに、嶋守よしえの娘・敏恵も、川端家のお手伝いとなる[170]
  23. ^ 伊藤初代は、川端と婚約破棄した後、中林忠蔵と結婚し、1923年(大正12年)に長女・珠江を儲けたが、中林は1927年(昭和2年)6月に肺病で死去。上京後知り合った桜井五郎と再婚し、1929年(昭和4年)に長男が生れるが夭折し、1931年(昭和6年)11月に次男が生れた。初代は桜井との間に7人の子供を儲け、内3人が死んで、4人を育てて、1951年(昭和26年)2月に数え年46歳で死去した[6][96][118]
  24. ^ その後、耕治人は川端に世話になり、戦後の1959年(昭和34年)に『喪われた祖国』を出版する。しかし秀子夫人の弟・松林喜八郎が小岩の公庫住宅に当たったという話を聞き、自分宅(借金をして地主から借地した土地)の中野区野方町1-605(現・中野区野方4-30-9)の隣りに借りた方がいいと、1958年(昭和33年)9月に誘い、そこに家を建て住んだ松林喜八郎と土地問題でトラブルとなり、訴えて敗訴する[20][169]
  25. ^ 「日本文学者会」の発起人には、阿部知二伊藤整上田広岡田三郎尾崎一雄尾崎士郎河上徹太郎岸田国士小林秀雄榊山潤島木健作武田麟太郎高見順富沢有為男、中島健藏、林房雄火野葦平、日比野士郎、深田久彌和田伝横光利一らがいた[199]
  26. ^ 1945年7月20日の第1回目の受賞者はプロレタリア作家から戦記作家に転向した里村欣三、里村は1940年7月に発表した自身の日中戦争での従軍記『第二の人生』で芥川賞にノミネートされながらも受賞を逃している。その後、里村は再度召集されて、マレーシンガポールフィリピンを転戦しながら戦記を書き続け、1945年2月にルソン島で戦死したため、戦記文学賞受賞理由を「報道戦における殊勲とその壮烈な戦死に対して」として、その「功績」に対して表彰し、遺族に賞金500円と記念品が追贈された。なおこの第1回だけで終戦により廃止となっている。(朝日新聞 1945年7月20日)
  27. ^ ほかに、大佛次郎、清水昆、小島政二郎横山隆一林房雄永井龍男らも、日替わりで店番をした[219]
  28. ^ 三島は来訪する時、可愛い動物の飾りのあるケーキや高級菓子を手土産に持参し、秀子夫人が受取ろうとすると、直接政子に手渡ししたがったという[228]。やがてその作戦が尽きると三島は、鎌倉文庫にいた山川朝子にアイデアの相談をしていたとされる[228]
  29. ^ この写真で川端の背後の床の間に掛かる絵は傅山(中国・明末清初)の『墨竹図』で、川端の美術コレクションの一品である[233]
  30. ^ 川端は同行者を豊島与志雄小松清と書いているが、『日本ペンクラブ三十年史』では、同行者は豊島与志雄、青野季吉となっている[234]
  31. ^ 実際、1961年(昭和36年)に、川端がノーベル文学賞を受賞する可能性があったことが、2012年(平成24年)のスウェーデン・アカデミーの情報開示で明らかになった [258]。ちなみに三島は、2014年(平成26年)の開示情報で、1963年(昭和38年)度のノーベル文学賞の有力候補6人の中に入っていたことが明らかになった[259][260]。なお、6人の中には三島の他に谷崎潤一郎西脇順三郎、川端も名を連ね、1964年、1965年度も同4名が候補に入っていた[261]。1965年については川端と谷崎への同時授賞も検討されていた[262]
  32. ^ 後藤孟は「賀茂丸」で川端と会ったことを以下のように述懐している。
    空腹だというので、わたしは親のこしらえてくれた弁当のノリ巻きをすすめたんです。川端さんはそれをホオばりながら、「ぼくには父も母もいないんだ」としんみり話ました。そうして、わたしに「下宿が見つからなかったら、相談に来たまえ」といってくれた。東京に着くと、川端さんが「朝ぶろに行こう」と誘った。熱すぎたのでジャ口をひねってうめていると、イレズミをした若い衆が五、六人はいって来て「ぬるいぞッ」とどなった。わたしは胸がドキドキしたが、川端さんは顔色ひとつ変えず、平然としていました。 — 後藤孟「談話」(『実録 川端康成』)[84]
  33. ^ ちなみに、三島由紀夫が初めて候補者に名を連ねた1963年度のノーベル文学賞選考資料で、選考委員会がドナルド・キーンに日本の作家についての評価を求めていたことが分かった[275]。当時キーンは、実績と重視し、年齢順に「▽谷崎潤一郎、76歳、▽川端康成、63歳、▽三島由紀夫、38歳」の順で推薦したが、本心では、三島が現役の作家で最も優れていると思っていたとし、それでも三島よりも谷崎・川端を高く評価したのは、年功序列を意識し日本社会に配慮したからだと説明して、「現在の日本の文壇では、彼が一番ぬきんでていると思う。しかし、谷崎や川端が、もし三島に先を越されたら、日本の一般市民は奇妙に感じるだろう。三島には、この先にもチャンスがある」と考えたと2015年(平成27年)3月に明らかにした[275]
  34. ^ 鹿沢縫子の実母・T子は長野市出身で、市内の松代町の小料理屋で働いていた20代前半の時に、福井県出身の50代の妻帯者・Oと知り合い、縫子を産んだ。Oには、妻との間に子がなかったため、縫子を認知し、妻とも養子縁組させて、同県松本市の自宅へ引き取った[289]。O宅は裕福であったが、縫子が8歳の時にOが亡くなり、養母がその6年後に盆栽店を経営するMと再婚し、縫子を連れて穂高町に来た[289]。Mには、すでに2人の男児と1人の女児があり、彼らは縫子の義兄、義姉となった。縫子は県内の県立蟻ヶ崎高等学校を卒業後、家業を手伝い、植木を車で配達していた[289]
  35. ^ 鹿沢縫子には、穂高町に恋人(中学以来の同級生)がいて、その翌年1973年10月に結婚した[289]
  36. ^ 三島由紀夫は、川端との会話での印象を以下のように綴っている。
    学習院の連中が、ジャズにこり、ダンスダンスでうかれてゐる、けしからん」と私が云つたら氏は笑つて、「全くけしからんですね」と云はれた。それはそんなことをけしからがつてゐるやうぢやだめですよ、と云つてゐるやうに思はれる。(中略) 僕が「羽仁五郎雄略帝の残虐を引用して天皇を弾劾してゐるが、暴虐をした君主の後裔でなくて何で喜んで天皇を戴くものか」と反語的な物言ひをしたらびつくりしたやうな困つたやうな迷惑さうな顔をした。「近頃百貨店の本屋にもよく学生が来てゐますよ」と云はれるから、「でも碌な本はありますまい」と云つたら、「エエッ」とびつくりして顔色を変へられた。そんなに僕の物言ひが怖ろしいのだらうか。雨のしげき道を鎌倉駅へかへりぬ。 — 三島由紀夫「川端康成印象記」[328]
  37. ^ 川端が1955年、当時新進芸術家であった草間彌生の作品を購入したことについては、草間の自伝には言及されているが、川端自身は草間の作品についての文章を残しておらず、どのような作品を購入したのかは一般には知られていなかった。2004年、東京国立近代美術館が草間の展覧会を開催するに際して調査した結果、『雑草』(1953年)と『不知火』(1955年)という2つの作品が川端康成記念会に保管されていることがわかった[351]
  38. ^ 川端旧蔵の金銅三鈷杵は奈良国立博物館の所蔵となっている。(参照:収蔵品データベース(奈良国立博物館)
  39. ^ 川端旧蔵の汝窯青磁盤は東京国立博物館の所蔵となっている。(参照:1089ブログ(東京国立博物館)2016年4月15日
  40. ^ この絵は昭和30年6月22日付けで川端康成蔵として重要文化財に指定されたものである[362]
  41. ^ 三八郎の生れ年に関しては、「幾歳幾月調」「明治八年十二月 国民軍取調誕生表」で調査すると、前年の天保11年(1840年)とあるため、こちらの年だという見解もある[15]
  42. ^ 恒太郎の死亡日については、羽鳥徹哉は5月14日としているが、笹川隆平は墓石で確認し、4月14日としている[15]
  43. ^ 「生きているのに」の曲名で収録。
  44. ^ この背景には、太宰治の友人・檀一雄が『道化の華』を推していて、川端ならきっと理解してくれると話していたため、審査過程で何か要らぬ力が作用したと太宰が考え、「お互ひに下手な嘘はつかないことにしよう」、「ただ私は残念なのだ。川端康成のさりげなささうに装つて、装ひ切れなかつた嘘が、残念でならないのだ」と言い[395]、川端や、その背後にいる人たちを批判しているとされる[381]

出典

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  366. ^ a b c 「時空を超越するもの」(解釈 1972年7月号)。論考 1991, pp. 658-669に所収
  367. ^ 「21 『わが友ヒットラー』」(瀧田 2002, pp. 183-194)
  368. ^ 川端康成「『悲しみの琴』に献辞」(林房雄 & 1972-03序文)。雑纂1 1982, pp. 186-190に所収
  369. ^ 「川端康成の生と死」(林武 1976, pp. 9-16
  370. ^ 臼井吉見『事故のてんまつ』(筑摩書房、1977年6月)。小谷野 2013, pp. 569-583、森本・下 2014, pp. 593ff.
  371. ^ 小谷野敦『私小説のすすめ』(平凡社新書、2009年7月)p.195
  372. ^ 「第十二章 五年後の『事故のてんまつ』 第六節 『事故のてんまつ』の部落差別」(森本・下 2014, pp. 637-679)
  373. ^ a b c d 真田邦子「孤独と向きあって」(太陽 2009, pp. 140-157)
  374. ^ 芹沢光治良『人間の意志』(新潮社、1990年7月)
  375. ^ 「第一部第二章 出生」(進藤 1976
  376. ^ a b c 「川端康成、母の秘密と身替りの母」(国語と国文学 1974年6月号)。基底 1979, pp. 85-112に所収
  377. ^ 「第六章 『住吉』連作――〈魔界〉の門 第七節 痛恨と断念『隅田川』」(森本・上 2014, pp. 770-802)
  378. ^ 川端康成「林房雄宛ての書簡」(昭和14年7月27日付)。小谷野 2013, p. 299
  379. ^ 音声録音『川端康成ハワイ大学講義 源氏物語と自作を語る』(カセットテープ全6巻、藤田圭雄監修・解説、アポロン音楽工業、1987年)がある。
  380. ^ a b 「解題」(雑纂2 1983
  381. ^ a b c d e f g h i 片山倫太郎・田村嘉勝「文豪をめぐる八人の作家たち」(太陽 2009, pp. 115-131)
  382. ^ a b c d e 石濱恒夫「ノーベル紀行」(『追憶の川端康成』文研出版、1973年4月)。進藤 1976各所
  383. ^ 「石濱恒夫宛ての書簡」(昭和25年3月7日付)。補巻2・書簡 1984, p. 363に所収
  384. ^ 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年2月1日付)。梶井3巻 1966, pp. 213-215に所収。独影自命 1970, p. 115に抜粋掲載
  385. ^ 「梶井基次郎」(翰林 1934年9月号)。評論1 1982, pp. 321-325、一草一花 1991, pp. 175-177、随筆集 2013, pp. 249-252に所収
  386. ^ 「片岡光枝宛ての書簡」(昭和19年8月9日付)。補巻2・書簡 1984, pp. 78-79に所収
  387. ^ 「手帖 (Pocket Diary)」(大正4年)。補巻1・日記 1984, pp. 254-256に所収
  388. ^ 「當用日記」(大正5年1月24日付)。補巻1・日記 1984, p. 288に所収
  389. ^ 平山三男・水原園博「川端康成コレクションのすべて 美の存在と発見――古賀春江」(太陽 2009, pp. 100-107)
  390. ^ 「文芸時評 窪川氏の『レストラン・洛陽』」(文藝春秋 1929年10月号)。評論2 1982, pp. 353-368に所収
  391. ^ 佐多稲子「川端さんとの縁」(『近代作家追悼文集成 高橋和巳・志賀直哉・川端康成』ゆまに書房、1999年4月)。『白と紫 佐多稲子自選短篇集』(学藝書林、1994年12月)。小谷野 2013, p. 193
  392. ^ 「文芸時評 『無法人』と『万暦赤絵』」(朝日新聞 1933年8月30日号)。評論3 1982, pp. 139-147に所収
  393. ^ 「志賀直哉」(新潮 1971年12月号-1972年3月号)。評論1 1982, pp. 645-668、随筆集 2013, pp. 257-287に所収
  394. ^ 芥川龍之介賞選評第一回昭和十年上半期」(文藝春秋 1935年9月号)。雑纂1 1982, pp. 297-366に所収
  395. ^ a b 太宰治「川端康成へ」(文藝通信 1935年10月号)。太陽 2009, p. 126、小谷野 2013, p. 256に抜粋掲載
  396. ^ a b 「太宰治氏へ 芥川賞に就いて」(文藝通信 1935年11月号)。評論3 1982, pp. 352-354に所収
  397. ^ 太宰治「川端康成宛ての書簡」(昭和11年6月29日付)。『太宰治全集第12巻 書簡』(筑摩書房、1999年4月)に所収。太陽 2009, p. 126に抜粋掲載
  398. ^ 「芥川賞予選記」(文學界 1936年9月号)。評論3 1982, pp. 435-443に所収
  399. ^ 「日記」(大正12年1月6日付)。補巻1・日記 1984, pp. 575-576に所収
  400. ^ a b 「第二部第十二章 『童謡』」(進藤 1976, pp. 383-395)
  401. ^ 「追悼記序」(文學界 1938年2月号)。評論1 1982, pp. 384-387に所収
  402. ^ 「序」(三島由紀夫『盗賊』真光社、1948年)。雑纂1 1982, p. 126に所収
  403. ^ 「三島由紀夫宛ての書簡」(昭和37年4月17日付)。三島往復書簡 2000, p. 153、補巻2・書簡 1984, p. 349に所収
  404. ^ 村松剛「三島の死と川端康成」(新潮 1990年12月号)。「I 三島由紀夫――その死をめぐって 三島の死と川端康成」として村松・西欧 & 1994-02, pp. 9-29に所収
  405. ^ a b 川端香男里・佐伯彰一の対談「恐るべき計画家・三島由紀夫―魂の対話を読み解く」(三島往復書簡 2000, pp. 205-237後記)
  406. ^ 「横光利一文学碑」(1959年12月)。評論1 1982, pp. 168-170、独影自命 1970, pp. 319-321に所収
  407. ^ a b 淀野隆『二人だけの「愛・宇宙」六十兆個のバラード』(近代文藝社、2010年12月)。小谷野 2013, pp. 382,442,470,534






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