岩松満純 岩松満純の概要

岩松満純

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/14 23:56 UTC 版)

 
岩松満純
時代 南北朝時代 - 室町時代前期
生誕 不詳
死没 応永24年閏5月13日1417年6月27日
改名 容辻王丸(幼名)、満純、天用(法号)
官位 治部大輔
氏族 河内源氏岩松氏新田氏
父母 父:新田義宗(諸説あり)[1]
養父:岩松満国(諸説あり)
兄弟 満氏、満純、満長、満親、満春
正室:上杉氏憲の娘
家純

生涯

正平23年/応安元年(1368年)に戦死した新田義宗の落胤といわれ、本人もそのように自称した。『系図纂要』には、義宗と満国の妹との間に生まれたのが満純であるとある。前半生ははっきりとはわかっていない。

兄に満氏がいたが、早くに亡くなったため、満純が岩松氏の後継となった。後に犬懸上杉家出身で関東管領となる上杉禅秀の娘を娶る。応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱では舅の上杉禅秀に味方し、鎌倉公方足利持氏追放に功績を挙げた。この際に義宗の落胤として新田姓を自称したという[要出典]

しかし、持氏が室町幕府の援助を受けて反攻してくると、新田荘に敗走した。しかし隣の佐貫荘の国人領主舞木持広の追討を受け、武蔵入間川の戦いに敗れて捕縛され、応永24年(1417年)に鎌倉の竜の口で斬首された。

この満純の動きに父の満国は同調せず静観し、満純の死後、孫の持国(満純の弟満春の子)に家督を譲り岩松家を継がせた。廃嫡されたもう1人の孫の家純(満純の遺児)は出家した。

後に、家純は祖父の死後に6代将軍足利義教の後押しにより復権し勢力を持ち、岩松家は家純流(礼部家)と持国流(京兆家)に分裂した。

脚注

先代:
岩松満国
岩松氏歴代当主
岩松満純
次代:
岩松家純/岩松持国

  1. ^ a b 埼玉県寄居町釜山神社所蔵の「岩松氏系図」には「義宗の子」とは一切記されていない。


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