劔山谷右エ門 (2代) 劔山谷右エ門 (2代)の概要

劔山谷右エ門 (2代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/31 06:17 UTC 版)

「相撲大鑑」、常陸山谷右衛門著、1909年発行より

略歴

大阪相撲時代

1870年(明治3年)、大坂相撲で鶴ヶ濱という力士であった父の縁での猪名川の門に入り響矢 熊吉で初土俵。1875年(明治8年)6月入幕(西前頭12)。翌1876年(明治9年)大坂相撲で脱走事件が起き、脱走組は「開化組」を名乗った。響矢も開化組に加わり大関を務めた。1878年(明治11年)9月帰参。この場所は残留組と開化組とで別々に番付を作り開化組西大関(この時下の名を熊十郎と改める)。翌1879年(明治12年)9月正式に東大関となった。1882年(明治15年)8月郷里の名峰にちなんで劔山 熊十郎と改名するが、この場所限りで大阪を脱走して東京相撲に転じる。

東京相撲時代

1883年(明治16年)梅ヶ谷の門下となり5月場所「東客席」(三役格)で出場。1884年(明治17年)1月東小結となり下の名を江戸の名大関と同じ谷右エ門と改名。1885年(明治18年)5月関脇1886年(明治19年)1月引退した梅ヶ谷に替わり大関に昇進した。1890年(明治23年)5月、西ノ海が初めて番付に横綱と書かれた場所劔山は西に張り出され「張出大関」となった。1891年(明治24年)1月からは地位表示なしの「張出」となり、これについては「大関格」「三役格」の二説がある。1892年(明治25年)6月限り引退。年寄武蔵川となった。勝負検査役などを務め、1910年11月、58歳で死去。肩幅広く胸板厚く左を差しての寄りは大関相撲と讃えられた。

成績

  • 出場19場所 70勝26敗79休14分1預(東京のみ)

関連項目

参考文献




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