交響曲第3番 (シューマン)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 08:08 UTC 版)
音楽・音声外部リンク | |
---|---|
全曲を試聴する | |
![]() | |
![]() | |
![]() |
日本初演は1927年9月25日、日本青年館にて近衛秀麿と新交響楽団によって行われた。シューマンの交響曲の中で最も早く日本で演奏された。
作曲の経緯など
![]() |
![]() |
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F6%2F69%2FSchumann_daguerreotypie.jpg%2F200px-Schumann_daguerreotypie.jpg)
- 1847年5月に長男を失い、11月、盟友であったフェリックス・メンデルスゾーンの死によって、シューマンは打撃を受けた。しかし、フェルディナント・ヒラーの後任としてドレスデンの男声合唱団の指揮をすることになり、シューマンはこれを混声合唱団に拡大するなどして力を注いだ。
- 1849年5月にドレスデンで革命蜂起(ドレスデン五月蜂起)が起こると、シューマンは心情的には自由主義の立場にあったが、精神障害や家族の安全のこともあってマクセンに避難する。この間、革命的な音楽や行進曲を作曲している。さらに、8月のゲーテ生誕100年記念祭に向けて、『ゲーテのファウストからの情景』の作曲をすすめ、ピアノ曲集『森の情景』を完成させた。
- 1850年、再びヒラーの後任としてデュッセルドルフの管弦楽団・合唱団の音楽監督に招かれる。9月に同地に到着したシューマン夫妻は盛大な歓迎を受けた。シューマンはライン川沿岸を好んで散歩し、9月と11月にはライン川上流に位置するケルンにも足を延ばした。壮麗なケルン大聖堂に感銘を受け、折しもこの時期に挙行されたケルン大司教ヨハネス・フォン・ガイセルの枢機卿就任式の報に接し、交響曲の霊感を得たという。シューマンは同11月にチェロ協奏曲を完成させると、ただちに交響曲の作曲に取りかかって、12月には完成している。「ライン」の副題は、シューマン自身が付けたものではないとしても、シューマンがライン川の川下りやそれを取り巻く環境に大いに触発され、その音楽もまた関連が深いことは間違いなく、第1楽章(ローレライ)、第2楽章(コブレンツからボン)、第3楽章(ボンからケルン)、第4楽章(ケルンの大聖堂)、第5楽章(デュッセルドルフのカーニヴァル)と関係が深くなっている。
楽器編成
フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ヴァルヴホルン2、ナチュラルホルン2、トランペット2、トロンボーン3(アルト・テナー・バス各1)、ティンパニ、弦五部。
注釈
- ^ マーラーは4曲すべてを編曲しているが、ブライトコプフのWebカタログ上でマーラー版が掲載されているのは交響曲第3番のみ(2010年2月6日確認)。
出典
- ^ ホルンとトロンボーンによるコラールは演奏が困難として有名。第1トロンボーンにアルト・トロンボーンが指定(当時は一般的であった)されているせいもあるが、その最高音は変ホ音である。これはラヴェルの『ボレロ』のトロンボーンのソロで使われている音域よりもさらに高く、しかも、いきなり4度上昇して変ホ音に達するため、20世紀以降の普通のオーケストラで使用されているテナー・トロンボーンではしばしば吹き損ねることで知られる(参考文献:近衛秀麿著『オーケストラを聞く人へ』改訂版、音楽之友社、1970年8月)。なお後述するマーラー版は演奏家に配慮した修正が見られるが、この部分は変更していない。
- ^ “hire material arranged by Gustav Mahler”. www.breitkopf.com. www.breitkopf.com. 2022年1月24日閲覧。
- 1 交響曲第3番 (シューマン)とは
- 2 交響曲第3番 (シューマン)の概要
- 3 構成
- 4 オーケストレーションの変更・改訂
- 5 脚注
- 交響曲第3番 (シューマン)のページへのリンク