井上内親王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/29 09:51 UTC 版)
異伝
後世の史書・史談などには『続日本紀』と異なる内容を伝える記事や、信憑性に欠ける扇情的な記述も散見される。
- 『水鏡』 - 光仁天皇が皇后と賭け事で「自分が勝ったら后に絶世の美女を紹介してもらおう。自分が負けたら后に若く逞しい男性を与えよう。」と言い、結果皇后の勝ちであったために山部親王を差し出したところ、皇后が若い親王に夢中になってしまった。
- 『一代要記』 - 他戸親王は井上内親王の実の子ではなく、内親王の生母と同じ県犬養氏出身の女嬬県犬養宿禰勇耳と白壁王との間に産まれた皇子で、井上内親王が引き取り我が子として育てた。『一代要記』の所伝を採れば、 他戸親王は『続日本紀』や『新撰姓氏録』左京皇別上に見える光仁天皇の皇子で、臣籍降下した広根諸勝と同母の兄弟ということになる。
鎮魂
宝亀7年(776年)から天災地変がしきりに起こり、廃后・廃太子の怨霊と恐れられ、また廃后は竜になったという噂が立った[9]。同8年(777年)、光仁天皇は遺骨を改葬させ、墓を御墓と追称[10]。さらに延暦19年(800年)、崇道天皇(早良親王)の名誉回復にあわせ、井上内親王を皇后と追号し、御墓を山陵と追称する[11]。陵墓は奈良県五條市御山町の宇智陵に比定されている。のちに慰霊のために霊安寺(廃寺)が建立され、更には霊安寺の隣に内親王を祀る御霊神社も創祀された。また、京都の上御霊神社、奈良市や五條市の御霊神社など、御霊信仰系の神社の祭神となっている例がある。
五條市の御霊神社において主祭神として祀られている平安時代後期に作られた一木造りの女神像は井上内親王の御霊を表しており、「木造御霊大神坐像」として奈良県文化財に指定されている[12]。
系譜
- ^ 『日本後紀』天長6年(829年)八月丁卯条(酒人内親王薨伝)
- ^ 大森 2007年,41頁
- ^ 『続日本紀』天平19年(747年)正月丙申条
- ^ 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』(吉川弘文館、2014年、P130-133.)初版は1986年。
- ^ 『続日本紀』宝亀元年(770年)十一月甲子条
- ^ 『続日本紀』宝亀4年(773年)十月辛酉条
- ^ 『続日本紀』宝亀6年(775年)四月己丑条
- ^ 大森 2007年,69頁
- ^ 青木 1966年,18頁
- ^ 『続日本紀』宝亀8年(777年)十二月乙巳条
- ^ 『日本後紀』延暦19年(800年)七月己未条
- ^ http://www.pref.nara.jp/secure/137108/20150320-0002.pdf
固有名詞の分類
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