モスクワの戦い 背景

モスクワの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 22:42 UTC 版)

背景

ドイツのソ連侵攻計画、バルバロッサ作戦では4ヶ月以内にモスクワを陥落させる事が求められていた。1941年6月22日、枢軸国はソビエト連邦に侵攻し、ソ連の航空戦力の大半を地上で撃破し、電撃戦を用いてソ連の領土に深く進軍して多くのソ連軍を撃滅した。北方軍集団はレニングラードへと向かい、南方軍集団はウクライナへ、中央軍集団はモスクワへと進軍した。1941年7月までに中央軍集団はモスクワの通り道であるドニエプル川を渡った[15]

1941年7月ドイツ軍はスモレンスクを陥落させた(スモレンスクの戦い)。スモレンスクはモスクワへの進軍路としては、攻勢発起点よりちょうど中間点であった[16]。この時点でモスクワの防衛は非常に脆い状態であったが、モスクワへの直接攻撃はドイツの側面を晒す必要があった。このようなリスクとウクライナの穀物と鉱物資源を確保するために[17]、ヒトラーは北方と南方へと転進し、レニングラードとキエフのソ連軍を殲滅するように命じた[18]。こうしてドイツのモスクワへの前進は遅れた[18]。1941年9月30日にモスクワへの進軍は再開されたが、ドイツ軍は弱体化しており、一方のソビエト軍は新たに徴兵された部隊がモスクワへの防御を固めていた[18]

ドイツ軍の最初の前進(9/30(火)-10/10(金))

計画

タイフーン作戦でのドイツの攻勢

ヒトラーは、ソ連を降伏させるためには ソ連を経済的に打倒する事が唯一の方法であると信じており、ソ連の首都は2番目の目標であった。ヒトラーはキエフより東のウクライナ地方の経済的資源を奪う事でこの目標を達成できると感じていた[19]。陸軍総司令官のヴァルター・フォン・ブラウヒッチュがモスクワへの直接的な攻撃を支援している時、”硬直化した脳がこのような考え方を可能にしている”と語っている[19]。参謀総長のフランツ・ハルダーはドイツ軍がソ連軍に十分な損害を与えた後にモスクワを奪う事は勝利をもたらすと確信していた[20]。このような観点は多くのドイツの高級司令官の間で共有されていた[19]。しかしヒトラーはキエフ南方のソ連軍の突出部とウクライナの奪取のために将軍の進言を却下した。この南進は成功し、結果として9月26日までに1,000,000名の赤軍の兵士を死傷、捕虜にし、1941年中にウクライナの大部分を支配下におく事ができた。

夏の終わりにより、ヒトラーは注意を再度モスクワへと向け、モスクワ攻略の任務を中央軍集団に当てた。4個軍(第2第4第9第6[21])とそれを支援する3個装甲軍(第2第3第4)と第2航空艦隊がタイフーン作戦に使用された。この作戦に従事したドイツ軍は200万名以下で、1000両から2470両の戦車・突撃砲と14,000の野砲を備えていた。しかしドイツの航空戦力は夏の戦闘により深刻なまでに減少していた。ドイツ空軍は1603機の航空機が破壊され、1028機が損傷していた。第2航空艦隊は航空機をわずか549機しかタイフーン作戦に使用する事ができなかった。この航空機には158機の中型の急降下爆撃機と172機の戦闘機が含まれていた[22]。ドイツ軍の攻撃手法はこのころには電撃戦ではなく殲滅戦理論に基づく殲滅戦へと移り変わってしまった。

ドイツ軍はモスクワへの道を妨げになるヴャジマ-ブリャンスクの間で、ソ連の防衛線を構成する3つの方面軍と直面した。これらの方面軍を形成している軍は激しい戦闘に巻き込まれた。ソ連軍は依然として1,250,000名の兵士と1000両の戦車と7600門の野砲を保有していた。ソ連空軍は7500機[23]から21200機[24]の航空機の損害を被っていた。並外れた産業の業績によりこれらの航空機は刷新され始め、タイフーン作戦の始めにソ連空軍は爆撃機578機を含む936機の航空機を集めた[25]

一度ヴャジマ-ブリャンスクの戦線のソ連の抵抗が無くなると、ドイツ軍は東に押し始め、北部と南部から側面に周りモスクワを包囲しようとした。連続した戦いによって戦力は減少し、補給上の困難はより深刻になり始めた。グデーリアンはいくつかの破壊された戦車は再配備されること無く、作戦開始時には燃料が不足したと記載している[26]

ヴャジマ-ブリャンスクの戦い

ヴャジマ-ブリャンスクでのドイツによる包囲の図。

ドイツ軍は計画に従って攻撃を行った。第3装甲軍は抵抗が少ない中央を突破した後、第4装甲軍と共にヴャジマの包囲を完成させるために機動戦力を北方に分割した。さらに別の部隊を南に送り、第2装甲軍と接合し、ブリャンスクの包囲網を閉じた。ソ連の防衛線はまだ構築中であったが、1941年10月10日に突出した第2、第3装甲軍の先陣はヴャジマで敵と交戦した[27][28]。ソ連4個軍(19軍、20軍、24軍、32軍)はモスクワの西で包囲された[29]

包囲下のソ連軍は戦い続けたが、ドイツ軍は28個師団を包囲下のソ連軍を殲滅するために展開した。この28個師団はモスクワ方面の攻勢を援護する事ができた部隊を使用した。ソ連の西方面軍と予備方面軍の残部は撤退し、モジャイスク周辺での新たな防衛線に配備された[30]。多くの損害を被ったにもかかわらず、一部の包囲下の部隊は撤退に成功し、小隊から完全編成の歩兵師団に配置された[28]。ヴャジマ付近のソ連の抵抗はスタフカが4個軍(第5、第16、第43、第49軍)でモスクワの防御を固めるための時間を稼いだ。3個歩兵師団と2個戦車旅団は後詰のために東シベリアから移送されてきた[30]

ブリャンスク近くの南方では、ソ連軍の戦闘能力は当初ヴャジマより有していた。第2装甲軍はこの都市を包囲するための機動を行い、第2軍の前進と連携し10月3日にオリョールを、6日にはブリャンスクを陥落させた。

しかし天候が変化し始めて、ドイツの行動は妨げられた。10月7日に初雪が降り、その雪が溶ける事で道はぬかるんだ沼地となった。この現象はロシアではラスプティッツァ(英語版)という現象で知られる。ドイツの機甲部隊は大幅に機動力が削がれ、ソ連軍が撤退し再編成する事を許した[31][32]

ソ連軍は局所的に反撃にでた。例として第4装甲師団はムツェンスク近郊のドミトリー・レルユシェンコ(英語版)の第4戦車旅団による待ち伏せ攻撃を受けた。ドイツの機甲部隊が防衛線を超えて進軍してきたので、新たに製造されたT-34は森に隠された。ソ連の歩兵のよせ集めの部隊がドイツ軍の進軍を阻止している間、ソ連の戦車は両翼に回りこみ、ドイツのIV号戦車を攻撃した。ドイツ軍にとってT-34の出現とその威力はとても衝撃的であったため、グデーリアンの強い主張によりT-34についての特別な調査委員会が作られることになった[28]

10月31日から11月15日の間、陸軍総司令部(OKH)はモスクワへの2度目の攻勢を準備する一方、戦闘行為を一時中止した。中央軍集団は数の上ではかなりの戦力を有していたが、これまでの戦いによる疲弊のため戦闘能力が喪失していた。ドイツは東からのソ連の増援の絶え間ない到来と、大規模な予備兵力の存在に気付いたが、ソ連が莫大な損害を出してでも、モスクワを防衛しようと決意しているとは予想していなかった[33]。しかし10月の状況と比較して、ソ連の狙撃師団はより強力な防衛陣を築いていた。3重の防衛網が都市とクライン近郊のモジャイスクの一部を囲んでいた。大半のソ連の野戦軍は多層の防衛陣を築き、少なくとも2個狙撃師団が、2層目に配置させた。

9月30日、中央軍集団はモスクワ攻略をめざしタイフーン作戦を開始した。第3装甲軍と北方軍集団から転用された第4装甲軍は10月2日に攻勢を開始し10月7日にヴャジマで合流しソ連軍4個軍(第19軍・第20軍・第24軍・第32軍)を包囲した。中央軍集団はブリャンスク周辺とヴャジマ周辺に2つの包囲網を形成し、相当な戦力を有するソ連軍を壊滅、事実上ソ連軍第19軍を主力とする西方面軍司令部を機能しない状態にまで追い込んだ。ドイツ軍は装甲部隊をより効率的に運用するため10月5日~8日にかけて各装甲集団を独自の補給段列を持つ装甲軍へと改編した。10月3日に第2装甲軍の第4装甲師団がオリョールを攻略し、10月6日には第2軍と第17装甲師団がブリャンスクを攻略した。ブリャンスク方面軍は退路を断たれたが中央軍集団に後背地のソ連軍を包囲殲滅する余力はなく、各部隊は重装備を放棄して東方に逃れた。

10月15日、スターリンは共産党、将軍、様々な政府の職員に僅かな人員だけを残して、モスクワからクイビシェフ(現在のサマーラ)に撤退するよう命じた。この撤退はモスクワ市民の混乱を招いた。10月16日、17日は多くの市民が逃亡しようと試み、列車に殺到し、モスクワからの道路は渋滞した。それにもかかわらず、スターリンはモスクワに留まり、秩序を保とうとした[28]

1941年11月、モスクワ前面でのラスプティッツァによる泥。

10月14日には、第3装甲軍はヴォルガ川を渡河し、モスクワとレニングラードを結ぶ鉄道を断ったほか、10月末には第2装甲軍の部隊がトゥーラ近郊まで到達することに成功した。

モジャイスク防衛戦(10/13(月)-10/30(木))

モスクワ陥落の危機に対し、ヨシフ・スターリンは10月10日にレニングラード攻防戦を一段落させたゲオルギー・ジューコフに首都防衛を命じ西方面軍司令官に就任させた。同時にソ連国防委員会は、政府機関や工場等をウラル方面へと疎開させつつもモスクワ市民を中心にドイツ軍に立ち向かわせ、冬将軍が来るまでできるだけ長く足止めをするという作戦を実行する。これには周辺士官学校生やコムソモール員からなる共産主義者義勇団等を大量動員、不足していた防衛前線へ人員補充の為に送られた。その中には後にパルチザン英雄として称賛される若きコムソモール、ゾーヤ・コスモデミヤンスカヤも含まれている。彼女はドイツ軍駐屯地への放火に依りドイツ軍に処刑されたが、これはソ連軍及びコムソモールの士気を高める材料には十分となった。10月になり、ついに天候が悪化しはじめ雨が多くなると、舗装されていないソ連の道は泥沼と化した。これがドイツ軍にとって致命的な障害となり、装甲部隊の前進も物資の補給もままならなくなった。一方、ソ連軍はこうした自然条件に慣れていたのと、ドイツ軍に比べ長距離の移動を必要としない防御戦であるためにさほど問題はなかった。この10月中のドイツ軍の前進の鈍化が、モスクワの防衛体制を整える時間的猶予を与えた。また、戦意高揚とスターリン政権の健在を示す為、この防衛戦の最中であっても11月7日の革命記念日には、ドイツ軍を尻目に恒例のスターリン演説と軍事パレードを敢行した。11月になると天候は回復し、気温が低下。霜が降りて路面状態は良好となり、ドイツ軍の進撃スピードは回復する。しかし、ドイツ軍は冬までに作戦を終了させる予定だったため、厳冬に対応した衣類や装備をしておらず、何よりも伸びきった補給線が限界に到達しようとしていた。また、ソ連軍はドイツ軍に物資を残さない徹底的な「焦土作戦」を実施し、補給の現地徴収もほぼ不可能となり、ドイツ軍はいよいよ窮乏に瀕した。


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