ホセ・フロイラン・ゴンザレス ホセ・フロイラン・ゴンザレスの概要

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ホセ・フロイラン・ゴンザレスの解説 > ホセ・フロイラン・ゴンザレスの概要 

ホセ・フロイラン・ゴンザレス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/09 09:14 UTC 版)

ホセ・フロイラン・ゴンザレス
基本情報
フルネーム ホセ・フロイラン・ゴンザレス
国籍 アルゼンチン
出身地 同・アレシーフェス
生年月日 (1922-10-05) 1922年10月5日
死没地 アルゼンチン
同・ブエノスアイレス
没年月日 (2013-06-15) 2013年6月15日(90歳没)
F1での経歴
活動時期 1950-1957,1960
所属チーム '50,'51,'52-'53,'56 マセラティ
'51 タルボ・ラーゴ
'51,'54,'55,'58,'60 フェラーリ
'56 ヴァンウォール
出走回数 26
タイトル 0
優勝回数 2
表彰台(3位以内)回数 15
通算獲得ポイント 72 17 (77 914)
ポールポジション 3
ファステストラップ 6
初勝利 1951年イギリスGP
最終勝利 1954年イギリスGP
最終戦 1960年アルゼンチンGP
テンプレートを表示

特色

F1においては、草創期における「名脇役」の1人とされ、太った体格と豪快な走りから、「大草原の猛牛」を意味する「パンパス・ブル」(The Pampas Bull )の異名を取った。2008年の時点でF1最多優勝記録を持つフェラーリに、初勝利をもたらしたドライバーでもある。

スポーツカー・レースにも出場しており、1954年のル・マン24時間レースにおいてモーリス・トランティニアンとのコンビでフェラーリ375を駆り、優勝した。

経歴

元々は、アルゼンチン国内でレース活動を行っていた。1950年、開催初年度となるF1世界選手権において、第2戦モナコGP・第6戦フランスGPの2戦にプライベーターのマセラティから参戦。どちらもリタイヤだったが、初参加となったモナコGPでは予選で3位の成績を残している。

1951年開幕戦のスイスグランプリにおいては、プライベーターのタルボから参戦。予選13位からリタイヤに終わった。

第1期フェラーリ時代

1951年シーズン中盤、ピエロ・タルッフィ負傷に伴い、代役として第4戦フランスグランプリにフェラーリから出場。このレースで2位に入り、初の表彰台を獲得した。この走りに対し、フェラーリは続く第5戦イギリスグランプリでもゴンザレスを起用することとなった。

与えられたマシンは前年型だったものの、ゴンザレスは迎えたイギリスグランプリの予選でポールポジションを獲得。決勝でも、ファン・マヌエル・ファンジオとの争いを制し、 ポールトゥーウィンで初優勝を飾った。この勝利は、フェラーリのF1初優勝としても記録されることとなる。

その後、残る3戦もフェラーリから出走。2勝目はならなかったものの、3レース全てで表彰台に上がり、ランキング3位となった。

マセラティ時代

1952年はチームの選択に翻弄され、最終戦イタリアグランプリのみの出走となった。マセラティから参戦したこのレースでは、予選5位からレース前半をリードし、初となるFLも記録。しかし、ピットインの間にアルベルト・アスカリに先行され、2位に終わっている。

1953年はマセラティから本格参戦したが、No.1ドライバーであるファンジオの陰に隠れる形となり、第5戦フランスGPでは「燃料を半分だけ積んでハイスピードで飛ばし、フェラーリの撹乱を誘う」という役割も担わされている。出走した5戦中、3位3回・4位1回・FL2回の成績が残っていたが、3戦を残してチームから離脱した。ランキングは6位。

第2期フェラーリ時代

1954年は、フェラーリに舞い戻り参戦。復帰初戦となる開幕戦アルゼンチングランプリでは、地元で予選2位からファステストラップを記録し、3位表彰台を獲得している。第5戦イギリスグランプリでは、予選2位から優勝。3年前に初勝利の舞台となったシルバーストン・サーキットにおいて、自身2勝目を挙げた。

しかし第6戦ドイツグランプリにおいては、予選中に同胞のオノフレ・マリモンが事故死。決勝ではショックから集中力を切らし、 マイク・ホーソーンにマシンを譲りレースを終える一幕もあった[1](結果的には2位)。しかし、続く第7戦スイスグランプリではポールポジションを獲得(決勝は、ハンス・ヘルマンとのシェアドライブで2位)。この年は、最終的にランキング3位となった。

1955年は、地元である開幕戦アルゼンチングランプリのみの出走となる。予選で自身3度目のポールポジションを獲得したが、酷暑の中で体力を消耗し交代。最終的には、トランティニアン、ジュゼッペ・ファリーナとの3者でのシェアドライブながら、2位となっている。

1956年以後

1956年以降は本格的なF1参戦はなく、地元であるアルゼンチングランプリを中心とした、散発的な出走のみに留まることとなる。

1956年は、開幕戦アルゼンチングランプリにマセラティ、第6戦イギリスグランプリにヴァンウォールから出走したが、どちらもリタイヤ。1957年は、フェラーリから開幕戦アルゼンチングランプリのみに出走し、5位の成績を残した。

その後、1958年1959年には1戦も出走しなかったが、1960年は開幕戦のアルゼンチングランプリのみフェラーリから参戦。しかし予選11位・決勝10位という成績に終わり、これがF1最後のレースとなった。

引退後

フェラーリ・500F2を駆るゴンザレス。
(※:写真は2000年に開催されたコイズ・インターナショル・ヒストリック・フェスティバル)

引退後は静かな余生を送っていたが、一時期病気を患った影響で、体格はスリムに変貌している。

草創期におけるF1ドライバーの多くが鬼籍に入る中、80歳を超えなお健在であったが2013年6月15日永眠。90歳没[2]


  1. ^ 当時は、チーム内でのマシンの交換が許されており、その場合それぞれに半分のポイントが与えられていた。
  2. ^ “ホセ・フロイラン・ゴンザレスが逝去”. ESPN F1. (2013年6月16日). http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/111389.html 2013年6月16日閲覧。 


「ホセ・フロイラン・ゴンザレス」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ホセ・フロイラン・ゴンザレス」の関連用語

ホセ・フロイラン・ゴンザレスのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ホセ・フロイラン・ゴンザレスのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのホセ・フロイラン・ゴンザレス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS