ブルターニュ継承戦争 シャルル・ド・ブロワ捕獲

ブルターニュ継承戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/20 16:53 UTC 版)

シャルル・ド・ブロワ捕獲

1345年3月にジャン・ド・モンフォールは監視を逃れてイングランドに逃亡した。エドワード3世は1345年夏にフランスとの戦争を再開し、アキテーヌに兵を送ると共に、ブルターニュにもノーサンプトン伯とジャン・ド・モンフォールを送った。ジャン・ド・モンフォールはカンペールの奪回を図ったが失敗し、間もなく病死した。これにより、わずか5歳のジャン4世が跡を継いだ。母ジャンヌは精神異常の兆候を示しており、モンフォール派は実質的にロンドンからの指令を受けたブレストのイングランド守備隊によって支えられている状況だった。

ノーサンプトン伯はパンティエーヴル伯領のブルターニュ北岸に侵攻したが、ラ・ロッシュ=デリアンを獲得したに留まった。1346年になるとエドワード3世はノルマンディに侵攻したため、フランス軍の主力はノルマンディに移動した。ノーサンプトン伯も副隊長のトーマス・ダグワースに託してエドワード3世に加わっている(8月26日にクレシーの戦い)。6月20日にダグワースのイングランド軍とシャルル・ド・ブロワの間で起きたラ・ロッシュ=デリアンの戦いでシャルル・ド・ブロワは敗北し、捕虜となった。

終わらない戦い

こうしてモンフォール派、ブロワ派ともに当主がいなくなったが、ブロワ派はパンティエーヴル女伯ジャンヌの下で抵抗を続けた。このため、モンフォール伯妃ジャンヌとあわせて「2人のジャンヌの戦い」と呼ばれることがある。

両派の戦いはその後も続き、トーマス・ダグワースは実質的なブルターニュ公代理として、パンティエーヴル伯領に攻勢をかけたが、1350年に戦死している。1351年には両派から30人の騎士が場所、日時を決めて対戦する「30人の戦い」という騎士道物語のような事件も起きており、フロワサールの年代記に記述されている。当然ながら、戦いの情勢には何の影響も与えなかった。

1352年に、フランス側はネスレ卿ギー将軍をブルターニュに派遣し、本格的にブロワ派の支援を再開した。1352年8月のモーロンの戦いでは、ギー将軍はクレシーの戦いの敗戦の教訓から全軍に馬を下りて徒歩での戦いを命じ、イングランド側のロングボウの脅威を減少させようとしたが、激戦の末にイングランド側が勝利を収めた。

1356年にランカスター公ヘンリー・オブ・グロスモントはブルターニュに入り、レンヌを包囲した。包囲は1357年7月まで続き、ヘンリーは多額の補償金を受け取り包囲を解いた。この時にレンヌ籠城で名を上げたのがブロワ派のブルターニュの騎士ベルトラン・デュ・ゲクランである。ゲクランは、この活躍によりシャルル5世に抜擢されている。

1357年にジャン4世が成人しブルターニュ公になったが、同時にポワティエの戦いの後のイングランド、フランス間の和平協定の中でシャルル・ド・ブロワも釈放されたため、再び2人のブルターニュ公が存在することになった。ブルターニュでも和平の話し合いが始まり、一時はブルターニュを分割することで話がまとまりそうだったが、パンティエーヴル女伯ジャンヌは了承せず、1362年に戦いが再開された。

終結

1364年ジャン4世、イングランドのジョン・チャンドス英語版が率いるモンフォール軍とシャルル・ド・ブロワ、ナバラ王カルロス2世とのコシュレルの戦いで名声を得たベルトラン・デュ・ゲクラン率いるブロワ軍がオーレの戦いで激突した。両者とも長い争いに決着を付ける覚悟を決めており激戦となったが、モンフォール軍の勝利に終わり、シャルル・ド・ブロワは戦死し、ベルトラン・デュ・ゲクランは捕虜となった。パンティエーヴル女伯ジャンヌも相続権の放棄を了承し、ジャン4世が唯一のブルターニュ公となった。

フランス王シャルル5世がジャン4世と和解し、封建的臣従の礼(オマージュ)を取らせることにして(1366年までジャンはパリに出頭しなかった)、ブルターニュ公として承認したため、ブルターニュ継承戦争は正式に終結した。同時に、相続における男系の優位も確認された。

しかし、フランス国王とのつながりの強いブルターニュの有力領主(フランス大元帥になったオリヴィエ・ド・クリッソンら)を抑えるために、ジャン4世とイングランドとの関係は続き、1372年にイングランドとブルターニュが同盟を結んだことが発覚したため(秘密同盟であったため、この同盟の結果再び与えられたリッチモンド伯の称号はイングランド向けの外交文書でしか名乗っていない)、1373年にジャン4世は追放され、1378年12月18日にはブルターニュはフランス王領への併合が宣言された。

しかし、独立を望むブルターニュの抵抗は強く、1379年4月にはローアン、ボマノワールらの有力家系からの8人の代表、そしてパンティエーヴル女伯らによる抵抗運動が表面化し、1379年8月3日にジャン4世は再びブルターニュに上陸した。フランス側は、1380年9月16日のシャルル5世の死などで混乱しており、1381年に和解が成立し、第2次ゲランド条約によりジャン4世が復位した。


  1. ^ Ronald H. Fritze; William Baxter Robison (2002). Historical Dictionary of Late Medieval England, 1272-1485. Greenwood Publishing Group. p. 231. ISBN 978-0-313-29124-1. https://books.google.com/books?id=INmdwCSkvIgC 
  2. ^ イングランド側の記録ではジャン・ド・モンフォールをジャン4世とし、以降1代ずつずれるが、ジャン・ド・モンフォールをブルターニュ公に含めないフランス側の表記の方が一般的なため、それに従った。






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