フランシス・フォード・コッポラ 来歴

フランシス・フォード・コッポラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 07:22 UTC 版)

来歴

祖父はイタリア人で、南イタリアの町ベルナルダ出身。1904年にアメリカに移住した。父は元NBC交響楽団フルート奏者で作曲家のカーマイン・コッポラ、妹は女優のタリア・シャイア

コッポラはデトロイト出身、ニューヨーク郊外で育った。ホフストラ大学で演劇を学ぶ傍ら、セルゲイ・エイゼンシュテインの作品を研究する。カリフォルニア大学ロサンゼルス校UCLA)で学び、在学中からピンク映画や恐怖映画の演出を手がける。

ロジャー・コーマンのもとで低予算映画の監督としてキャリアをスタートし、『大人になれば…』ではジェラルディン・ペイジアカデミー助演女優賞ノミネートをもたらす。また『雨のニューオリンズ』(1965年)、『パリは燃えているか』(1966年)、『禁じられた情事の森』(1967年、クレジットなし)[1]などの作品では脚本を執筆。『パットン大戦車軍団』(1970年)ではアカデミー脚本賞を受賞した。

1969年11月19日、映画制作会社アメリカン・ゾエトロープ社を設立[2]ワーナー・ブラザースと7本の映画製作の契約を結ぶが、第1作目となるジョージ・ルーカス監督作の『THX 1138』の内容をワーナー幹部に酷評され、契約を破棄された上に勝手な編集を加えられ、公開された映画は興行的、批評的に失敗する。その結果、ゾエトロープ社とその社長のコッポラは危機に追い込まれる。

映画『ゴッドファーザー』や『地獄の黙示録』で名声を得た1970年代時期

1972年に自身が監督した『ゴッドファーザー』が公開され、当時の歴代世界興行収入ランキングで1位を記録。更に第45回アカデミー賞では作品賞を受賞し、自身も脚色賞を受賞。本作により、落ち目と目されていたマーロン・ブランドアカデミー主演男優賞受賞によって復活を果たし、アル・パチーノロバート・デュヴァルジェームズ・カーンダイアン・キートンの出世作ともなると同時に、コッポラ自身も会社の立て直しに成功する。本作の成功により経済的余裕ができたコッポラは、ルーカスが監督した『アメリカン・グラフィティ』(1973年)で製作を担当。前作の『THX 1138』での失敗を見事に跳ね返す成功となるが、ルーカスは同時に次作として温めていた企画である『スター・ウォーズ』に対するコッポラの介入を恐れるようになり、それを避けるためにジョセフ・コンラッドの『闇の奥』をベトナム戦争に置き換えた映画化企画(後に『地獄の黙示録』として発表)を無償で譲ることにした。

1974年、『ゴッドファーザー』の続編である『ゴッドファーザー PART II』と、自身のオリジナル脚本によるサスペンス映画カンバセーション…盗聴…』が公開される。前者では当初は監督就任に乗り気ではなく、監督はマーティン・スコセッシに任せ、自身は製作として携わろうとしていた。しかし、パラマウント映画から無条件予算とファイナルカットを含めた全権を渡されたことから監督就任も含めた契約書にサインした。後者に関しては『ゴッドファーザー PART II』と同時期に制作していたため、録音担当のウォルター・マーチが編集作業にも携わった。公開後、前者は続編物としては唯一のアカデミー作品賞を受賞し、コッポラの父であるカーマイン・コッポラアカデミー作曲賞を受賞。興行的にも大成功を収める。後者は興行的には失敗したものの、スリリングな演出と主演のジーン・ハックマンの演技が批評家からは大絶賛され、カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。また、『ゴッドファーザー PART II』と共にアカデミー作品賞にダブルノミネートされることとなった。

1975年12月[3]、コッポラは東映に「千葉真一とアル・パチーノの共演による映画を作りたい」と申し入れをしている[4]。しかし岡田茂 (東映) はこのオファーを断り[5]、コッポラが望む映画製作は実現しなかった。

1979年、ルーカスから渡された企画を『地獄の黙示録』として発表する。本作はフィリピンの奥地で撮影されたが、自然災害や監督とキャストとの衝突、スタッフ間でのドラッグの蔓延により大幅にスケジュールが遅れ、コッポラも相次ぐトラブルから来るストレスによって倒れてしまう。しかし、撮影終了後、未完成のまま作品はカンヌ国際映画祭に出品され、物議を醸しながらも再びパルム・ドールを受賞。本国でも興行的に成功を収め、巨額の制作費を無事に回収する。また、その翌年には黒澤明の『影武者』の外国版プロデューサーとして参加し、資金を援助した。

1982年の『ワン・フロム・ザ・ハート』が興行的、批評的に失敗、経済的に苦しい立場に追い込まれて、1980年代以降には3度の破産を経験している。

1990年、『ゴッドファーザー PART III』を発表。当時、すでに破産によってハリウッドで力を失っていたコッポラには製作現場における権力も殆ど無く、完成した作品も前2作に及ぶ興行成績を残せなかった。また、娘のソフィア・コッポラは役者として出演したものの、ゴールデンラズベリー賞受賞という不本意な結果になってしまい、アカデミー賞でも作品賞を含む6部門にノミネートされたものの、結果は無冠となった。

2000年以降は監督としての作品数は減ったものの、2003年には娘のソフィアが監督した『ロスト・イン・トランスレーション』で製作総指揮を務め、ソフィアがアカデミー脚本賞を受賞。親子3代でアカデミー賞受賞者となった。


  1. ^ ハーラン・リーボ 著、河原一久、鈴木勉 訳『ザ・ゴッドファーザー』ソニーマガジンズ、2001年11月22日、43頁。ISBN 978-4789717748 
  2. ^ ハーラン・リーボ 『ザ・ゴッドファーザー』前掲書、50頁。
  3. ^ 文化通信社 編「1975年(昭和50年)12月 映像多角化の縦深展開で収益拡大」『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』指田洋・渡邉裕二・大川仁志(初版)、ヤマハミュージックメディア、2012年6月15日、62頁。ISBN 4636885198OCLC 820774816 
  4. ^ 文化通信社 編「『新幹線』も海外で人気」『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』指田洋・渡邉裕二・大川仁志(初版)、ヤマハミュージックメディア、2012年6月15日、68頁。ISBN 4636885198OCLC 820774816 
  5. ^ 【復刻・日曜のヒーロー】待っていて下さい 必ずや ハリウッドの千葉真一”. nikkansports.com. 日曜日のヒーロー. 日刊スポーツ新聞社 (2021年8月20日). 2021年8月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月4日閲覧。
  6. ^ a b エドマンド・H・ノースと共に受賞。
  7. ^ a b c d e マリオ・プーゾと共に受賞。
  8. ^ ゲイリー・カーツと共にノミネート。
  9. ^ グレイ・フレデリクソン、フレッド・ルースと共に受賞。
  10. ^ フレッド・ルース、グレイ・フレデリクソン、トム・スターンバーグと共にノミネート。
  11. ^ a b ジョン・ミリアスと共にノミネート。
  12. ^ ゲイリー・カーツと共に受賞。
  13. ^ a b c d マリオ・プーゾと共にノミネート。
  14. ^ カーマイン・コッポラと主に受賞。
  15. ^ a b カーマイン・コッポラと共にノミネート。
  16. ^ ジョージ・ルーカスと共に受賞。
  17. ^ 高松宮殿下記念世界文化賞 2013年 第25回 演劇・映像部門 フランシス・フォード・コッポラ”. 2013年10月25日閲覧。
  18. ^ 2013 Praemium Imperiale Press Conference”. 2013年10月25日閲覧。
  19. ^ Francis Ford Coppola, 2013 Laureate of Theatre/Film”. 2013年10月25日閲覧。
  20. ^ Rubicon Shuttered | News | News & Features”. Wine Spectator. 2018年6月18日閲覧。






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