パルチザン (ユーゴスラビア) 終戦後

パルチザン (ユーゴスラビア)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/31 06:26 UTC 版)

終戦後

ユーゴスラヴィアは、第二次世界大戦において自力で自国を解放した数少ない国のひとつであった。ベオグラード攻勢(Belgrade Offensive)を始めとするセルビアの解放ではソ連軍の支援を受け、また1944年中期以降はイギリスを中心とするバルカン航空部隊からの継続的な航空支援を受けていたが、支援は限定的であった。終戦の時点において、ユーゴスラヴィアの域内には外国の軍隊はいなかった。こうした事実は、その後の冷戦期においてユーゴスラヴィアが西両陣営から一定の距離を保って自立することができた一因である。

1947年から48年にかけて、ソビエト連邦はユーゴスラヴィアへの指導権の確保を試みたが失敗し、ティトー=スターリン決別(Tito-Stalin split)を招いた。ユーゴスラヴィアとソビエト連邦の関係が悪化したこの時期に、アメリカおよびイギリスはユーゴスラヴィアの北大西洋条約機構(NATO)加入を検討したが、1953年のトリエステ危機によって西側諸国とユーゴスラヴィアの関係が悪化し(トリエステ自由地域)、また1956年にソビエト連邦との関係回復が図られたため、西側諸国入りすることもなかった。

その後ユーゴスラヴィアは崩壊時まで非同盟外交路線を堅持したが、パルチザンを基に設立されたユーゴスラビア人民軍という強力な常備軍を保持し、さらに有事には全国民が侵略軍に対して武装抵抗を行うトータル・ナショナル・ディフェンスという戦略を採用していた(ユーゴスラビア社会主義共和国連邦#軍事を参照)。

報復行為

終戦直後の時期、一部地域の住民やパルチザン兵士による枢軸勢力の同調者、協力者、ファシストに対する報復行為が発生した。その顕著な例がブライブルクの虐殺Bleiburg massacre)、フォイベの虐殺(foibe massacres)、バチュカ虐殺(killings in Bačka)などであった。

ブライブルクの虐殺では、英米軍に降伏するためにオーストリア南部に向かったチェトニクやスロヴェニア人のドモブランツィ(Slovene Home Guard)、クロアチア独立国軍の兵士に対して報復行為が行われた。フォイベの虐殺とは、パルチザンの第8ダルマティア軍団やファシストに憤る市民らによって、イタリア人ファシストやその協力者、同調者、分離主義者と目された人々が殺害され、フォイベ(foibe)と呼ばれる洞穴に投げ込まれた事件である。それまでイストラ半島は長くイタリアの統治下に置かれ、非イタリア人は抑圧下に置かれていた。1993年に発足したイタリア人とスロヴェニア人の混成の歴史家委員会はイタリア領およびスロヴェニア領で発生した事件を調査した。それによると、虐殺の対象は、各個人の責任よりも立場上のファシズムとの近さに基づいたもので、共産主義政府にとって真に有害な者のみならず、その疑いのある者や潜在的な可能性を持つ者を一掃することに重点を置いたものであったとしている[69]バチュカの虐殺は、ハンガリー人のファシストや協力者、その疑いのあるものを対象とした同種の虐殺である。

また、各地のパルチザンの命令系統の整合性にも問題があった。例えば、スロヴェニア・アイドフシュチナのパルチザンは退却中のドイツ軍との間でこれ以上の戦闘をしないことを合意し、ドイツ軍は武装解除した。しかし、その後ユーゴスラヴィアの別の地域から来たパルチザン部隊が、非武装化されたドイツ軍を銃殺した。

しかし、ドイツ人やイタリア人、ファシスト協力者らに対するこうした報復殺害の数は、最大限に多く見積もっても枢軸勢力による死者数よりははるかに少ないものであった。ドイツやイタリア、ウスタシャやチェトニクなどと異なり、パルチザンはジェノサイドの戦略を持たず、全てのユーゴスラヴィアの諸民族の「兄弟愛と統一」を基本原則に掲げていた。枢軸勢力による占領の期間中、軍人・民間人あわせて90万人から150万人がファシストの犠牲となっている[70]

このパルチザンの暗黒史は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国では1980年代末期までタブーであり、公的機関がパルチザンの犯罪行為に対して沈黙を貫いた。これによりユーゴスラビア内戦から連邦解体後にかけて、各国の民族主義者らがプロパガンダ目的で好き勝手に数字を誇張できる状態になってしまった[71]

犠牲者の多くは森や炭鉱洞窟に埋められ、そうした地点はスロベニアでは約600カ所と推計されている。2000年代に入り、断続的に発掘と遺体の収容が進められている[72]


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