テオドール・アドルノ ナチス機関誌加担について

テオドール・アドルノ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/10 13:43 UTC 版)

ナチス機関誌加担について

1933年、ナチスがアメリカ黒人ジャズを禁止すると、アドルノは、ジャズは愚かであって救済すべきものはなにもなく、「ジャズの禁止によって北方人種への黒人種の音楽影響は除去されないし、文化ボルシェビズムも除去されはしない。除去されるのは、ひとかけらの悪しき芸術品である」と、当時ナチスが頻繁に使用していた「除去」「人種」「文化ボルシェビズム」といった言葉を使用して批評した[8]

1934年にアドルノは、ナチ全国青年指導部(Reichsleitung)の広報誌月刊ムジーク1934年6月号に論評を発表し、ヘルベルト・ミュンツェル(Herbert Müntzel)作曲のツィクルス「被迫害者の旗(Die Fahne der Verfolgten)」を誉めた[9][10][11]。この曲はヒトラーユーゲント全国指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの詩に曲をつけたものであった[12]。アドルノはこの曲がすばらしい根拠は、「シーラッハの詩を選ぶことで自覚的に国民社会主義的な特徴をしるしている」こと、またヨーゼフ・ゲッベルスが『ロマン主義的リアリズム』と規定した「新しいロマン主義の表象化が追求されていることにあると書いた[12]

1963年1月、雑誌『ディスクス』上でクラウス.Chr.シュレーダーは、アドルノは「ミニマ・モラリア」で「アウシュビッツの後ではドイツ詩はもはや書くことが不可能であると書いたが、ユダヤ人虐殺を仄めかしたシーラッハの詩を賞賛していたこととどう折り合わせるのか、また戦後アドルノはナチの共犯者を断罪してきたが自分の過去の言動については口を拭ってきたではないか」と質問した[13][12]。この公開質問に対してアドルノはその論評を書いたことは「慙愧にたえない」が、理性的な読者ならあの論評は「新しい音楽」を弁護したものであり、「善意からのおもねりとして理解すべき」であると弁明した[12]。また月刊ムジークは非政治的な雑誌であり、アドルノはその論評を書いたすぐ後の1934年夏にはナチスに自発的に協力することはやめたし、内奥の核までファシストであるハイデッガーと私を比べることはできないと弁明した[12][14][15]

ハンナ・アーレントカール・ヤスパース宛書簡で、アドルノの弁明について「言いようもなくみっともない」「真に破廉恥な点は、純ユダヤ人のなかでは半ユダヤ人の彼が、あのときの一歩(ナチスの機関誌に批評を掲載したこと)を友人たちにまったく知らせずに踏み出したこと」と批判した[16]。アーレントがアドルノに対して嫌悪感を持った理由としては、アドルノがナチスに迫害されたヴァルター・ベンヤミンを生存中に支援しなかったことや、アーレントから見るとアドルノはユダヤ人と左翼知識人に対する背信者であったことなどが挙げられている[17]。ヤスパースもアーレント宛書簡で「なんたるぺてん。彼を読んだかぎりでは―才知に富み、計り知れぬほど多くを知り、あらゆる角度からすべてを吟味しつつ、叡智の最高の高みから書いているような著作にすら―なに一つ信用するに足るものはない」とアドルノを酷評している[18]

アドルノのナチス機関誌加担問題は1985年にアーレントとヤスパースの往復書簡[19]が公刊されてから1990年代に再び持ち出されるようになった[20]。エスペン・ハンマーによれば、アドルノのナチス機関誌加担問題はハイデッガーのナチス加担問題に比すべき問題であるが、アドルノが戦後ナチスとナチスに加担した知識人について批判してきただけに、その知的誠実さを疑問視させるものであり、反調停的な倫理やラディカルな知的自律性といった戦後のアドルノの主張のすべてを疑問視することになると論じている[21]


注釈

  1. ^ 後日、正式に肯定した。

出典

  1. ^ 井上純一「拒否されたアイデンティティ」立命館国際研究18-3,March2006.Espen Hammer, Adorno and the Political,Routledge, 2005. Section3:Approaches to Fascism - The Paradoxes of Resistance.
  2. ^ シュトックハウゼンとトータルセリエリスムはどのように出会ったのですか? - シュトックハウゼン音楽情報
  3. ^ 細見 2014, p. i.
  4. ^ a b 細見 2014, p. ii.
  5. ^ 細見 2014, pp. i–ii.
  6. ^ 細見 2014, p. 137.
  7. ^ a b c 細見 2014, p. iii.
  8. ^ 井上純一「拒否されたアイデンティティ」立命館国際研究18-3,March2006,p124-125.
  9. ^ Die Musik,Amtliches Mitteilungsblatt der Reichsjugendfuehrung,Juni 1934.
  10. ^ Ursula Heukenkamp,Hrsg.Schuld und Sühne? Kriegserlebnis und Kriegsdeutung in deutschen Medien der Nachkriegszeit (1945-1961). Internationale Konferenz vom 1.-4.9.1999 in Berlin (Amsterdamer Beiträge Zur Neueren Germanistik) Taschenbuch – 1. Januar 2001,p.727.及びStefan Müller-Doohm: Adorno. Eine Biographie. Suhrkamp, Frankfurt am Main 2003, p793-795,p.280.
  11. ^ 井上純一「拒否されたアイデンティティ」立命館国際研究18-3,March2006,p122-123.
  12. ^ a b c d e 『アーレント=ヤスパース往復書簡』3、みすず書房、大島かおり訳、2004年, p.286-287
  13. ^ Diskus,Frankfurter Studentenzeitung.13.Jg./1963.Nr.1/Januar,p.6.
  14. ^ Stefan Muller-Doohm,Adorno: A Biography,2008,Chapter11:The Coordination of the National Socialist Nation and Adorno's Reluctant Emigration. 注釈48.
  15. ^ Deutscher Studenten Anzeiger,4 May 1963
  16. ^ 1966年7月4日ヤスパース宛書簡。『アーレント=ヤスパース往復書簡』3、みすず書房、2004,p.208-9
  17. ^ 井上純一「拒否されたアイデンティティ」立命館国際研究18-3,March2006,p125-126.
  18. ^ 1966.4.29のアーレント宛書簡。『アーレント=ヤスパース往復書簡』3、みすず書房、2004,p.202.
  19. ^ Arendt/Jaspers Brefwechsel.Piper Verlag GmbH,1985.
  20. ^ 井上純一「拒否されたアイデンティティ」立命館国際研究18-3,March2006,p125.
  21. ^ Espen Hammer, Adorno and the Political,Routledge, 2005. Section3:Approaches to Fascism - The Paradoxes of Resistance.






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「テオドール・アドルノ」の関連用語

テオドール・アドルノのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



テオドール・アドルノのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのテオドール・アドルノ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS