ソビエト連邦によるポーランド侵攻 戦間期のポーランド

ソビエト連邦によるポーランド侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/10 06:50 UTC 版)

戦間期のポーランド

1919年のパリ講和会議後も、ヨーロッパでは一部の党派が領土拡張への意欲を保っていた。ユゼフ・ピウスツキはポーランドの国境を可能な限り東に広げる方策を探っていた。ポーランドを盟主とする連合国をつくることによって、将来予想されるロシアまたはドイツによる帝国主義的行動に対抗しようとしていたのである[27]。一方その頃、ロシア内戦で優勢になりつつあったボリシェビキも、西側における共産主義運動を支援すべく、係争中の土地を目指して西進を始めていた[28]。国境を巡る1919年の両者の小競り合いは、次第に白熱して1920年のポーランド・ソビエト戦争にまで発展した[29]。ワルシャワの戦いでポーランドが勝利をおさめ、ソビエトは和平を求めたことで、同年の10月には休戦が成立して戦争が終わった[30]。1921年3月18日には正式な平和協定であるリガ平和条約が締結され、問題となっていた土地はポーランドとロシアに分割された[31]。戦間期のあいだにポーランドとソビエト連邦間の国境がおおまかに定まったのは、ソビエトがポーランドの講和全権団に対して争いの原因となった国境地帯における領土的譲歩を提案したからだった。これにより両国の国境は1772年の最初のポーランド分割以前の、ロシア帝国ポーランド・リトアニア共和国の国境に非常に近いものとなった[32]。和平合意がなされて以降、ソビエトの指導者は世界革命という目標をほとんど放棄してしまい、その後およそ20年もの間、この理想に立ち返ることはなかった[33]。大使会議と国際社会(リトアニアを除く)は、1923年にポーランドの東部における新しい国境を承認した[34][35]

条約の交渉

ドイツは1939年3月15日、プラハへの進軍を開始した。4月半ばには、ドイツのさらなる攻勢に対抗するための政治的・軍事的な協定について締結を目指し、ソビエト連邦、イギリス、フランスによる外交提案のやりとりが始まっていた[36][37]。ポーランドはこの折衝には加わっていなかった[38]。3国による議論は、ドイツの拡大主義が続くとして参加国同士でどこまでの保証が可能かというテーマに集中した[39]。ソビエトはイギリスやフランスが集団安全保障条約を履行するとは信じていなかった。なぜなら両国は過去にスペイン内戦における国家主義者の台頭やチェコスロバキアの解体を防ぐことができなかったからである。さらにソ連は、ナチス・ドイツとソビエトがいつか衝突するときにもイギリスとフランスは傍観者であろうとしているという疑いを持っていた[40]。一方でスターリンは、すでに1936年から密使を通じてナチス・ドイツと秘密協議を行っていた。ヒトラーとの交渉こそが、スターリン外交の本命だった、とロバート・グロージンは書いている[41]。ソ連が求めているのは、勢力圏の維持に関する確かな保証以外の何者でもなく[42]、有事の際はフィンランドからルーマニアまで緩衝地帯を広げることを主張していた[43][44]。また同時に、安全保障上の脅威が発生する事態には、これらの国に立ち入る権利も求めていた[45]。8月半ばに軍事対話が始まったが、交渉はすぐにドイツ軍の攻撃を受けた際にソ連軍がポーランドを通過できるかという問題で行きづまった。イギリスとフランスの両政府はポーランドにソ連が出した条件を呑むように圧力をかけたが[46][47]、ポーランドははっきりとこれを断った。いったん赤軍が自国に立ち入ったが最後、おとなしく帰ることはないだろうと考えたのである[48]。ソビエトはポーランドの要望を無視して、抗議があろうとも3国協定を締結してしまうことを提案したが、イギリスがそれを拒否した[49]。そんなことをすれば、ポーランドはドイツとより強力な2国関係を築くだろうと考えたからである[50]

不可侵条約で想定されていたポーランドの分割案と実際

かたやドイツ政府は数ヶ月にわたって、イギリスとフランスとの政治協定よりもよい条件を出せることをソビエト政府に密かに提案していた[51]。ソ連は3国との交渉が同時に進んでいる最中に、ナチス・ドイツと経済協定を結ぶための議論を始めた[51]。1939年7月の終わりから8月上旬にかけて、ソビエトとドイツは計画されていた経済協定の締結に向けて細部の詰めをほぼ完了し、将来的な政治協定についても具体的に取りかかりはじめた[52]。1939年8月19日、ドイツとソビエトは、経済における相互理解を図り、ソ連の資源をドイツの武器、軍事技術、民生品と交換する独ソ通商協定を締結した。その2日後、ソ連は3国間の軍事対話を中止している[51][53]。8月24日、ソ連とドイツは経済協定や不可侵条約を含む、政治および軍事的な協定を調印した。後者の協定は相互の不可侵をうたうとともに、ヨーロッパの北と東をそれぞれドイツとソビエトの勢力圏に置くことに合意した秘密の議定書が付随していた。当初ソ連側とされたのは、ラトビア、エストニア、フィンランドであった[Note 8]。ドイツとソ連はポーランドに関しては分割する予定で、ピサ川とナレ―フ川、ヴイスワ川、サン川の東側で線を引き、そこまでがソ連のものになる予定であった。この協定によって、ソビエト連邦には侵攻作戦に参加する機会が生まれ[20]、また1921年の平和条約で割譲した領土を取り戻す好機がもたらされた。ソ連はアドルフ・ヒトラーとの衝突を避けたまま、ポーランドの東半分全体をウクライナとベラルーシ共和国に組み込むことが可能になった[56][57]

ドイツとソビエトが条約を締結した翌日、フランスとイギリスの軍事使節団はソビエトの交渉役であったクリメント・ヴォロシロフに早急な会合を開くように要求した[58]。8月25日、ヴォロシロフは彼らに対してこう語った。「政情が変わった以上、このまま対話を続けることで得られるものは存在しない」[58]。同じ日に、イギリスとポーランドは相互援助条約を締結した。これにより、イギリスはポーランドの独立を保証するとともに、その防衛に責任を負うことになった[59]

ノモンハン事件

モスクワでは、9月14日から日本の東郷茂徳駐ソ特命全権大使とソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣との間で、5月に勃発したノモンハン事件の停戦交渉が進められていた。ソ連側は有利に戦争を進めており当初は強硬な姿勢で交渉に臨んでいたが、モスクワに前線方面軍司令シュテルンから、「日本軍が4個師団以上の大兵力を集結させ、どんなに犠牲を払っても8月の敗戦の報復に出るべく準備を進めている」との報告が挙がっており[60]、ソ連側は日本軍が攻勢に転じれば、今までの戦闘経過から見てかなり長期の消耗戦になると懸念していた。

ソ連はこの後にドイツとの密約によるポーランド侵攻を計画しており、ノモンハンとポーランドの二方面作戦は回避したく停戦を急ぐ必要があった[61]。当時のソ連はポーランド侵攻の密約の他にも、フィンランドトルコへの進出を計画しており、各地で頻発する紛争事件を抱えてモロトフは疲労困憊こんぱいしていた。そこでスターリンからの決裁を得て、9月15日に停戦合意に至った[62]。これにより日本との戦いの心配もなくなった。


注釈

  1. ^ ポーランド国境防衛隊(ならびにポーランド東部に配置されていたポーランド陸軍)の部隊は、ドイツ軍による侵略開始の前後にドイツ・ポーランド間の国境に向けて次々と移送されていた。結果として、赤軍の侵攻時に東部国境を防衛していたポーランド国境防衛隊は約2万人に過ぎなかった[1]
  2. ^ ドイツ軍から撤退中のポーランド陸軍は混乱・衰弱した状態にあったため、その戦力の推定も不確かになっている。ジョージ・サンフォード英語版は、約25万人のポーランド陸軍部隊が侵攻するソ連軍の前線に存在したが、彼らによる抵抗は散発的なものにとどまったと推測している[1]
  3. ^ 報復として即時処刑された、または反ポーランド組織ウクライナ民族主義者組織によって処刑された約2,500人の捕虜はこれらの数字に含まれていない[1]
  4. ^ グレゴリー・クリヴォシェイエフ英語版が示したソ連の公式な被害推定では戦死/行方不明が1475人(ウクライナ戦線972人・ベラルーシ戦線503人)、戦傷が2383人(ウクライナ戦線1741人・ベラルーシ戦線642人)とされている。ソ連軍は約150台の戦車を戦闘中に失い、その内43台は修復不能な損傷を負った。さらに数百台が機械的な故障に見舞われた[3]。サンフォードはポーランド側によるソ連被害者数の推定が戦死3000人、戦傷1万人であるとしている[1]。ロシア人の歴史家Igor Bunichはソ連軍の戦死・行方不明・戦傷者を計5327人と推定している[6]
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  6. ^ 1939-1941年の期間に国外追放された者の正確な人数は明らかになっていない。最も少ない推定では約350,000人、最も多い推定では150万人以上と見積もられている。(ルドルフ・ランメル英語版の推定では120万人、Tony KushnerとKatharine Knoxの推定では150万人)[14][15]
  7. ^ ソビエト連邦はドイツ軍がワルシャワを陥落させる前にポーランド侵攻を開始することには消極的だった[20]。1939年9月9日には駐ソ連ドイツ大使フリードリヒ・ヴェルナー・フォン・デア・シューレンブルク英語版にポーランド侵攻の決定が下されたことが伝えられていたが、実際にソ連軍の侵略が始まったのはそれから1週間以上後のことだった[21]
  8. ^ この分割案は1939年9月28日に修正され、ドイツの勢力圏にヴィスワ川ブク川の間の地域が、ソ連の勢力圏にリトアニアが加えられることとなった[54][55]
  9. ^ ポーランド=イギリス共同防衛協定(Agreement of Mutual Assistance between the United Kingdom and Poland)の第1条項は次のように述べている: "Should one of the Contracting Parties become engaged in hostilities with a European Power in consequence of aggression by the latter against that Contracting Party, the other Contracting Party will at once give the Contracting Party engaged in hostilities all the support and assistance in its power."[96]
  10. ^ 有権者が投票できる候補者は各議員ポジションに1人ずつしかおらず、選択の余地はなかった。議会では共産党のコミッサールたちが、銀行・重工業の国有化や農民共同体への土地の移譲を強行するための決議案を提出するのが常だった[119]

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