グリュービンゲン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/19 10:27 UTC 版)
紋章 | 地図 (郡の位置) |
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基本情報 | |
連邦州: | バーデン=ヴュルテンベルク州 |
行政管区: | シュトゥットガルト行政管区 |
郡: | ゲッピンゲン郡 |
市町村連合体: | オーベレス・フィルスタール自治体行政連合 |
緯度経度: | 北緯48度35分41秒 東経09度38分34秒 / 北緯48.59472度 東経9.64278度座標: 北緯48度35分41秒 東経09度38分34秒 / 北緯48.59472度 東経9.64278度 |
標高: | 海抜 565 m |
面積: | 23.05 km2 |
人口: | |
人口密度: | 97 人/km2 |
郵便番号: | 73344, 73235 |
市外局番: | 07335 |
ナンバープレート: | GP |
自治体コード: |
08 1 17 028 |
行政庁舎の住所: | Hauptstraße 18 73344 Gruibingen |
ウェブサイト: | www.gruibingen.de |
首長: | ローラント・シュヴァイケルト (Roland Schweikert) |
郡内の位置 | |
地図 | |
グリュービンゲン (ドイツ語: Gruibingen) は、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州シュトゥットガルト行政管区のゲッピンゲン郡に属す町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)である。
地理
位置
グリュービンゲンは、シュトゥットガルトとウルムとの間、シュヴェービシェ・アルプ前のフィルス川支流の谷に位置する。連邦アウトバーン8号線が町の東部、アイヒェルベルクとミュールハウゼン・イム・テーレとの間の谷を通っている。
自治体の構成
自治体グリュービンゲンには、グリュービンゲン地区、農場集落カルテンヴァングホーフ、一戸集落エクゼンミューレ、廃集落のカルデンヴァンクが属す[2]。
土地利用
用途 | 面積 (ha) | 占有率 (%) |
---|---|---|
住宅地 | 40 | 1.7 |
商工業地 | 23 | 1.0 |
レクリエーション用地 | 7 | 0.3 |
その他市街地 | 18 | 0.8 |
交通用地 | 155 | 6.7 |
農業用地 | 1254 | 54.4 |
森林 | 726 | 31.5 |
水域 | 5 | 0.2 |
その他 | 77 | 3.3 |
合計 | 2305 | 100 |
2022年現在の州統計局のデータに基づく[3]。
歴史
中世から近世
聖マルティンス教会の発掘調査により、グリュービンゲンの谷における人の定住は中世初期にまで遡ることが証明されている。墓の発掘では、この地域に裕福な人物がいたことが証明された。特に黄金のイヤリングが発見され、かつては大変に豊富な副葬品を持つ貴族の墓であったことが示された。また、聖職者が埋葬された痕跡があり、ラテン地方、おそらくはブルゴーニュ地方との関係が示唆されている。メロヴィング朝やカロリング朝の定住跡はマルティンス教会のすぐ北側および町の北の入り口付近にあり、元々複数の中心を持つ集落構造であったことが証明された。
グリュービンゲンは、861年にヴィーゼンシュタイク修道院の設立文書中で初めて記録されている。この中で修道院は、griubingaro marco にあると書かれている。修道院創設に関連した様々な記述は、グリュービンゲンが湯治も重要な権力の中心地であり、修道院設立がグリュービンゲンから始まった可能性を示している。
しかし地主は町の統治権を獲得するには至らなかった。グリュービンゲンは、流血裁判権、独自の度量衡、古くからの市場開催権を堅持し続けた。15世紀にはフライドルフ(支配の及ばない自由な村)と記述されており、その重要性がさらに強調されている。
1418年から1533年までの間のいずれかの時点で初めて、ヴュルテンベルク伯によってフライドルフの地位が剥奪され、古くからの自由と権利が制限された。宗教改革の時代には、この村もヴュルテンベルクの一部として福音主義に転向した。これ以後グリュービンゲンは、ヴュルテンベルク公領とヘルフェンシュタイン伯領との境界というだけでなく、福音主義とカトリックの信仰上の境界にもなり、これがその後の発展に影響を及ぼすこととなった。
この村はヴュルテンベルクで、1485年まではアムト・キルヒハイムに、それ以後はアムト・ゲッピンゲンに属した。
三十年戦争の時代(1618年 - 1648年)には飢餓と悲惨が満ちた。戦闘、疫病、疾病によって131人が亡くなった。戦争末期の1647年に村は略奪され、焼き払われた。130棟の家屋や倉庫が焼失した。そのわずか21年後に、村の鍛冶屋の失火によって再び火災に見舞われ、教会、牧師館、穀物庫、十分の一税倉庫、農家1軒だけを残して村全体がその犠牲となった。炎から逃れられたのは7人だけであった。
この村は再び元の規模に戻ることはなく、1712年には「この町には街道が通っていない」とまで描かれた。経済状況は主に小作の農業とわずかな職人仕事に限られた。
19世紀から20世紀
1808年に成立したヴュルテンベルク王国の新たな行政制度が適用され、グリュービンゲンは、まず1808年から1810年までの短い期間オーバーアムト・ヴィーゼンシュタイクに属したが、1810年に再びオーバーアムト・ゲッピンゲンに戻された。
グリュービンゲンは、19世紀の工業化からも取り残された。住民は引き続き農業とささやかな副業で暮らしていた。
20世紀になってやっと農業以外の産業の機会が訪れた。
ナチ時代のヴュルテンベルクの行政改革によってグリュービンゲンは1938年に新設されたゲッピンゲン郡に編入された。
第二次世界大戦後この町はアメリカ占領地区の一部となり、新たに設けられたヴュルテンベルク=バーデン州に編入された。この州は1952年に現在のバーデン=ヴュルテンベルク州に再編された。
戦後グリュービンゲンは、インフラが整い、多くの手工業者や中小企業が立地する風格のある町に発展した。
- ^ Statistisches Landesamt Baden-Württemberg – Bevölkerung nach Nationalität und Geschlecht am 31. Dezember 2021 (CSV-Datei)
- ^ Das Land Baden-Württemberg. Amtliche Beschreibung nach Kreisen und Gemeinden. Band III: Regierungsbezirk Stuttgart, Regionalverband Mittlerer Neckar. Stuttgart: Kohlhammer. (1978). pp. 348–350. ISBN 978-3-17-004758-7
- ^ “Fläche seit 1996 nach tatsächlicher Nutzung / Gruibingen (Kreis Göppingen)”. Statistisches Landesamt Baden-Württemberg. 2024年3月17日閲覧。
- ^ “Evangelische Kirchengemeinde Gruibingen”. 2024年3月16日閲覧。
- ^ “Evangelischer Kirchenbezirk Geislingen”. 2024年3月16日閲覧。
- ^ “Wahlen / Bürgermeisterwahl Gruibingen 2020 / Übersicht und Details zur Wahl am 27.09.2020”. 2024年3月16日閲覧。
- ^ “Mitglieder / Gemeinderat Gruibingen”. Gemeinde Gruibingen. 2024年3月16日閲覧。
- ^ “Gruibingen / leo-BW”. 2024年3月16日閲覧。
- ^ “moll Funktionsmöbel GmbH”. 2024年3月16日閲覧。
- ^ “Moll, Tief und Straßenbau GmbH & Co.”. 2024年3月16日閲覧。
- ^ “Mühlhausen / Kodak in Mühlhausen lebt im Meister-Stammtisch fort” (2014年12月6日). 2016年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月16日閲覧。
- ^ “Schulen in Gruibingen”. Bildungsweb Media GmbH. 2024年3月16日閲覧。
- 1 グリュービンゲンとは
- 2 グリュービンゲンの概要
- 3 住民
- 4 文化と見所
- 5 関連図書
- 6 脚注
- グリュービンゲンのページへのリンク