グランド・オペラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/16 07:57 UTC 版)
台本
台本面での第一人者は、ウジェーヌ・スクリーブであった。彼は歴史上の大きな流れのドラマに、そこに生きる登場人物の恋愛、信仰、私的自己と公的自己の間の葛藤などをうまく織り込んだ台本作成を得意としていた。『ユグノー教徒』や『ユダヤの女』では、抑圧された少数者の悲哀にまで筆が及んでいる。そしてそれら複雑な要因が、宗教上の大虐殺(ユグノー教徒)、革命の勃発(ウィリアム・テル)といった印象的なクライマックスに向けて動き出すのである。
舞台装置・効果・演出
パリのオペラ座[3]は、このような大規模な舞台が可能となるよう設計されていた。舞台幅、奥行ともは30メートル超、奥行にかけて最大12枚の中間幕を上下させられる構造であった。複雑な演目では、60人の機械操作担当者とそれ以上の人数の助手を要したという。
1832年からは、舞台照明としてそれまでの灯油ランプではなく、ガス灯を全面的に用いている。ガス灯は単に無煙で明るいというばかりでなく、ガス流量を手元制御することで機動的な明暗付けが可能であり、舞台効果の発達につながった。またガス灯によって明るくなった舞台がもたらした変化として、歌手や合唱団員の大袈裟なジェスチャー、表情付けが歓迎されなくなり、より微妙な演技が歓迎されるようになったとの説もある(もっとも、当時の舞台所作を正確に伝える資料は存在しない)。
そして舞台装置の点でグランド・オペラを支えたのが、ピエール・シセリとルイ・ダゲールの2人だった。1816年から1848年までの長きにわたりオペラ座の絵画主任(peintre en chef)に任ぜられたシセリは歴史的感覚に秀で、壮大な、しかし詳細な歴史的考証に基づいた舞台装置を作成した。『ウィリアム・テル』公演の考証のために、彼はわざわざスイスとイタリアへの旅行も行うほどであった。ダゲレオタイプ(実用写真術の原型)の創始者としてより有名なダゲールは、彼の「パノラマ」あるいは「ジオラマ」と称する技術で、それら装置に立体感を与えた。2人の共同になる典型例は、上記オベールの『ポルティチの唖娘』の第5幕の装置であり、そこでは舞台手前には壮麗な宮殿、中景には森林と街並み、そして最後景にはヴェスヴィオ火山を配し、しかもクライマックスでその火山は花火仕掛けで大噴火し、そこから流れ出た溶岩が舞台全面を覆うのだった。
当初オペラ座公演では、既存他演目の装置の流用がコスト的観点から奨励されないまでも黙認され、シセリはこの「リサイクル」の点でも天才的な手腕を発揮したという。しかし1831年には「新演目は新たな装置と衣装で上演されなければならない」とする規則が加わり、舞台装置に新奇性を求める風潮に一段と拍車がかかった。その場合、時代考証に始まり、装置・衣装製作、譜面完成後の長期にわたるリハーサル等、新作公演には最低18か月の準備期間を要した。
舞台が大規模となり、またそこに同時に出演する歌手、合唱、エキストラ、バレエ陣などの人数が増加するのに伴い、舞台進行の整理役が必要になってきた。19世紀前半はまだ「演出家」と呼ぶに足る職業は影も形もなかったが、この頃からステージング・マニュアル(livret de mise-en-scène)が整備・保存されるようになり、当時のオペラがどのように舞台化されていたのかを今日知る手がかりになっている。
合唱
グランド・オペラ様式は大規模な合唱を必要としていた。1837年におけるオペラ座合唱団は76人(ソプラノ29人、テノール27人、バス20人)で、これは世界最大であった。男女比6対4の偏りは(これは鶏と卵の関係であるが)大群衆シーンで兵士、僧侶役など男声をより多く必要としていたグランド・オペラ諸演目に好適であった。ヨーロッパ他国に目を転じれば、はっきりした記録の残る同時代の他劇場の例では、ドイツのオペラ・ハウスは比較的多人数の合唱を持っていたがそれでも50から60人、サンクトペテルブルクでは48人、オペラの最高峰の一つと目されていたナポリのサン・カルロ劇場では僅か36人であり、またいずれも男女比ほぼ半々、ないしは若干女声多数である。ベルリンやプラハなどの劇場でオペラ座の演目を移入する際には、合唱それも男声部の拡充が行われている。
単なる人数ばかりでなく、質の点でもオペラ座の合唱は他を凌駕していた。団員はすべてパリ音楽院で専門教育を受け、楽譜の読解が可能な、月給制の合唱団員であった。定収を得ていればこそ、長期間にわたるリハーサルも行えたわけである。これに対して、例えば同時代のイタリアの劇場の合唱団員は公演の都度給金を受け取る兼業パートタイマーであり、また読譜できる者は少なかった。
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