グランド・オペラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/16 07:57 UTC 版)
バレエ
バレエも、グランド・オペラの重要な一要素だった。イタリアやドイツで成功したオペラも、ここオペラ座で演奏する際には必ず大規模なバレエが補作(divertissement)された。ヴェルディ『オテロ』などもそういった一つで、大家ヴェルディも木に竹を接いだようなバレエ音楽を挿入している。パリ・オペラ座ではこのバレエ付加版『オテロ』を1966年まで公演で用いた。さらに、グランド・オペラ時代のパリ・オペラ座では、モーツァルトの『魔笛』、『ドン・ジョヴァンニ』を上演する際にも、聴衆の好みを優先し、原作を一部カットの上、代わりにモーツァルトやハイドンの器楽曲などを挿入し、これに合わせてバレエを踊らせるという「グランド・オペラ」化を施した上演を行った[4]。
このように、バレエは芸術上の必要性ばかりでなく、むしろ社交上、興行上の要請の産物だった。オペラ座には定期会員が自由に出入りできる「フォアイエ・ド・ラ・ダンス」あるいは「フォアイエ・デ・ダンスール」(踊り子溜り)なる大広間兼楽屋が配置され(これも支配人ヴェロンの「改革」の一つ)、オペラ座に頻繁に通う紳士たちは、舞台鑑賞そっちのけで、着替え中の贔屓のバレリーナとの歓談(あるいはオペラが終わった後の夜の過ごし方の相談)に時を過ごすのだった。マイアベーアに至っては、彼女ら踊り子をはっきりと「公娼並みの存在」と言っている。もっとも主役級以外の踊り子は薄給に甘んじており、売春を生活の糧とするのは致し方ない現実だった。
彼らの強い希望もあり、グランド・オペラにおけるバレエは第2幕(あるいは第3幕)に挿入されるのが慣例化していた。彼らは、退屈な(と考えられていた)序曲や第1幕は観ずにゆっくり飲食などをし、遅くなってから劇場に現れた。また、上述のように昼間は生業に従事しており、早くから劇場に来られない、という顧客も多かったかも知れない。彼らが大きな双眼鏡で贔屓の踊り子に見惚れる様子は、当時の絵入雑誌でも風刺されている。1861年、ワーグナーは『タンホイザー』のパリ初演を行ったが、彼はドラマの連続性・緊張感を重視してバレエを序曲の直後に入れたため、バレエを観損なったこれら常連客(バレエ愛好者を中心としたジョッキー・クラブと称する団体)の轟々たる非難を浴び、公演は3夜にして中止となった。
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