ウィル・ロジャース
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ウィル・ロジャース William "Will" Rogers | |
---|---|
Will Rogers (1922) | |
生誕 |
1879年11月4日 インディアン準州(現在のオクラホマ州)ウーロガー |
死没 |
1935年8月15日 (55歳没) アラスカ準州バロー |
職業 | 俳優、コメディアン、コラムニスト、ラジオ・パーソナリティ |
政党 | 民主党 |
配偶者 | ベティ (1879年-1944年) |
子供 |
ウィル・ロジャース・ジュニア メアリー・アメリア ジェイムズ・ブレイク フレッド・ストーン |
オクラホマ州自慢の息子として知られる[1]ロジャースは、インディアン準州の著名な家庭の子として生まれた。世界中を3度も旅し、71本の映画(50本はサイレント、21本はトーキー)を作った[2]。全国紙に4,000本以上のコラムを書き[3]、世界的に有名な存在になった。
1930年代半ばまでにロジャースは米国で高い人気をもち、当時のハリウッドではギャラが最高級の映画スターとなった。1935年、ロジャースは飛行士のウィリー・ポストとアラスカ準州バロー近くで小型飛行機で飛行中に墜落事故死した。
初期の経歴
ロジャースはインディアン準州のドッグアイアン牧場、現在のオクラホマ州ウーロガー近くで生まれた。生家は1875年に建てられたものであり、「ヴァーディグリス川のホワイトハウス」と呼ばれた[2]。父のクレメント・ヴァン・ロジャース(1839年-1911年)と母のメアリー・アメリカ・シュリムシャー(1838年-1890年)はどちらもチェロキー族の血を引いており、ウィル・ロジャース自身は32分の9がチェロキー族の血だった[4]。ロジャースは、先祖がメイフラワー号で来たわけではないが、「その船には会った」と冗談を言っていた[5]。父のクレメント・ロジャースはインディアン準州で著名な存在だった。チェエロキー族の上院議員かつ判事であり、南軍の古参兵となり、オクラホマ憲法制定会議では代議員を務めた。オクラホマ州ロジャース郡はクレメント・ロジャースの栄誉を称えて名付けられた[2]。母のメアリー・ロジャースは4分の1がチェロキー族の血であり、またペイント一族の血筋だった[6]。母はウィル・ロジャースが11歳のときに死に、父は母の死後から2年経たないうちに再婚した[7]。
ロジャースは8人兄弟の末っ子だった。その名はチェロキー族指導者ウィリアム・ペン・アデア大佐に因んで名付けられた[8]。兄弟のうち3人の姉妹、サリー・クレメンタイン、モード・エセルおよびメイ(メアリー)だけが成人した。この子供達はミズーリ州ニーオショーにあるウィロー・ハッセル学校に通い、後にブーンビルのケンパー士官学校に入った。ロジャースは10年生でその学業を終えた。ロジャースは「10年生のときに4年生の教科書を勉強した」と言っているように、学校の成績は良くなかったことを認めていた[5]。カウボーイや馬の方に興味があり、ロープの使い方を学び、投げ縄を使った。
ロジャースはその簡単な正規教育を終えた後で、長年ドッグアイアン牧場で働いた。1901年の暮れ近く、ロジャースと友人の1人がアルゼンチンのガウチョとして働こうと思いつき家を出た[5]。二人は1902年5月にアルゼンチンに到着し、アルゼンチン・パンパで牧場主になろうとして5ヶ月を過ごした。不運なことにロジャースと友人は持ち金をすべて無くし、ロジャースの言葉に拠れば「国に送還されるのを恥じた」ので、友人と別れたロジャースは南アフリカに渡った。そこでイギリス軍の馬を飼い馴らす仕事を手に入れたが、ボーア戦争は3ヶ月前に終わっていたと言われることがある[9]。実際にはムーイ川ステーションにあるピッチョンの牧場で仕事に就いていた[10]。
戦争が終わるとイギリス軍はもはや軍馬の飼育員を必要としなくなり、ロジャースは「テキサス・ジャックの大西部サーカス」でロープの使い手としてショービジネスの経歴を始めた。
彼(テキサス・ジャック)はそのキャンプを訪れた小さな大西部集団を持っており、途方もない事業をやっていた。私はロープ使いや馬乗りをやり、私が知っていた中でも最も賢いショーマンだったジャックは、私に大きな興味を持った。私のポニーと共に出た最初のステージにアイディアをくれたのも彼だった。わたしは彼からショービジネスについて多くを学んだ。彼は普通の者ではとてもできないようなロープを使った芸ができ、観衆に大したものだと思わせたので、私は何時間も彼のやることを研究したものであり、ショービジネスの大きな秘密、すなわち何時降りるかということを学んだ。観衆がもっとと望むときに止めるタイミングを知っていたのが彼だった。[9]
ロジャースはジャックのガイドに感謝しながらも、移動したいという願望があり、サーカスを辞めてオーストラリアに行った。テキサス・ジャックはそこに居るワース・ブラザーズ・サーカスに推薦状を書いてくれ、ロジャースは馬乗りやロープ使いの芸を続け、またポニーの芸もさせた。ロジャースは1904年にアメリカ合衆国に戻り、アメリカの巡回ボードビルでロープの技を試し始めた。
ボードビル
ロジャースはニューヨーク市に旅し、マディソン・スクエア・ガーデンに行くと、野生の牛が競技場から飛び出し観客席に登り始めた。ロジャースは直ぐにロープで牛を捕まえ、群衆を喜ばせた。新聞の第一面に称賛の声が載ったのでロジャースにとっては大きな宣伝になり。観衆はもう一度見たいと願った。ウィリアム・ハマーシュタインがロジャースのボードビル芸を見に来て、直ぐに文字通り屋根の上にあったビクトリア・ルーフにそのポニーと共に出ることにサインした。その後の10年間、ロジャースが数えてみると年に50週間、そのルーフや市内に無数あるボードビル劇場で働いた[9]。
1908年、ロジャースはベティ・ブレイクと結婚し、この夫妻にはウィル・ロジャース・ジュニア(ビル)、メアリー・アメリア(メアリー)、ジェイムズ・ブレイク(ジム)およびフレッド・ストーンの4人の子供達が生まれた。ビルは第二次世界大戦の英雄となり、父の映画にも2回出演し、アメリカ合衆国下院議員になった。メアリーはブロードウェイの女優となり、ジムは新聞記者と牧場主になった。フレッドは2歳のときにジフテリアで死んだ[3]。この家族はニューヨークに住んだが、夏の間はオクラホマで過ごすようにした。1911年、ロジャースはオクラホマ州クレアモア近くに20エーカー (8.1 ha) の牧場を1エーカー当たり500ドルで購入し、そこを終の棲家にするつもりでいた[3]。
1915年秋、ロジャースはフロレンツ・ジークフェルトの「ミッドナイト・フロリック」(真夜中の浮かれ騒ぎ)に出演を始めた。このバラエティーショーはジークフェルトのニューアムステルダム劇場というナイトクラブの最上階で真夜中に始まり、多くの影響力がある固定客を惹き付けた。この頃までにロジャースはその芸を科学的に洗練させていた。その日のニュースに関する一人芝居は毎夜似たような流れに従った。カウボーイの服装でステージに現れ、物憂げに投げ縄を回しながら、「さて、何について話しましょうか?話して面白いことは持っていないんですよ。私が知っているのは新聞で読んだことだ」と話し始めた。続いてその日の新聞で読んだことについてジョークを飛ばした。「私が知っているのは新聞で読んだことだ」というセリフは、しばしばロジャースの最も有名な「落ち」として記述されることがあるが、事実は導入部でのセリフだった。
ニューアムステルダムでの出演は1916年まで続き、明らかに人気が出たのでより有名なジークフェルト・フォリーズに出演するようになった。ジークフェルトは、見事な衣装に身を包んだ美しい女性達の次の演し物のためにステージを作り直す間、観客を楽しませる単なる「繋ぎ」としてコメディアンを見ていた。ロジャースはロープ使いの芸と日々のニュースに関する的確な風刺で、自分のステージを維持しただけでなく、スターの地位にまで昇った。ニューヨーク・タイムズの論説は、「フォリーズに出ているウィル・ロジャースはアリストパネスの伝統を持ち込んで、しかも無価値ではないものにした」と論じた[11]。ロジャースは、サミュエル・ゴールドウィンの会社であるゴールドウィン・ピクチャーズのために、サイレント映画にも手を広げた。1918年にニュージャージー州フォートリーで撮影した最初のサイレント映画『笑うビル・ハイド』を制作した。初期の映画の多くはニューヨークの大きな市場近くで制作されたので、フォリーズで試し、演じながら映画を作ることができた。1916年から1925年はフォリーズの大半に出演することになった。
- ^ a b Curtis, Gene (2007年6月5日). “Only in Oklahoma: Rogers statue unveiling filled U.S. Capitol”. Tulsa World 2007年7月21日閲覧。
- ^ a b c "RSU and Will Rogers Museum to Discuss Possible Merger" (Press release). Rogers State University. 18 April 2007. 2007年7月20日閲覧。
- ^ a b c Schlachtenhaufen|, Mark, Will Rogers grandson carries on tradition of family service, OkInsider.com, Oklahoma Publishing Company, 2007-05-31
- ^ a b Yagoda, Ben. Will Rogers: A Biography. Norman: University of Oklahoma Press, 1993: 8.
- ^ a b c d “Adventure Marked Life of Humorist”. The New York Times (1935年8月17日). 2007年7月20日閲覧。
- ^ Carter, Joseph H. and Larry Gatlin. The Quotable Will Rogers." Layton, Utah: Gibbs Smith, Publisher, 2005:20.
- ^ Ferguson, Deborah, Ferguson's Family Tree & Branches, RootsWeb, 2003-01-10
- ^ "Origin of County Names in Oklahoma." Oklahoma History Society's Chronicles of Oklahoma. 2:1, March 1924 (retrieved 18 Jan 09)
- ^ a b c “Chewing Gum and Rope in the Temple”. The New York Times: p. 90. (1915年10月3日)
- ^ Ben Yagoda, Will Rogers: A Biography, p 56, 2000, University of Oklahoma Press, ISBN 978-0806132389
- ^ “Give A Thought To Will”. The New York Times: p. 13. (1922年11月13日)
- ^ “Written On The Screen”. The New York Times: p. 50. (1919年6月8日)
- ^ Rogers, Will (1922年12月31日). “Slipping the Lariat Over (December 31, 1922)”. The New York Times
- ^ Beam, Christopher; Chadwick Matlin (2007年10月23日). “Will Rogers: The Stephen Colbert of his time.”. Slate. 2009年8月26日閲覧。
- ^ “Will Rogers: Radio Pundit”. Will Rogers Memorial Museums <http://www.willrogers.com> (2008年3月31日). 2009年8月26日閲覧。
- ^ “Police Dept., police explorers strolls through the streets of the U.S. Capitol, stops for visits”. The Anderson Independent-Mail. (2007年7月18日) 2007年7月20日閲覧。
- ^ “Oklahoma Memorial Union - Will Rogers Room”. Union.ou.edu. 2009年8月14日閲覧。
- ^ Internet Movie Database entry for Mrs. Parker and the Vicious Circle
- 1 ウィル・ロジャースとは
- 2 ウィル・ロジャースの概要
- 3 映画
- 4 旅
- 5 「私は嫌いな人とまだ会ったことがない」
- 6 出演映画
- 7 関連項目
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