ウィラメット川
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/20 00:49 UTC 版)
来歴
初期の居住者
少なくとも1万年の間、カラプヤ族やチヌーク族、クラカマス族など、様々なアメリカ先住民がウィラメットバレーに居住していた[38]。クラカマス族の居住地域はクラカマス川が流れるバレーの北東部を占めていた。正確な時期は不明だが、チヌーク族は一時期流域の北部一帯からコロンビア川渓谷までの領域に広がっていた。ウィラメットバレーには、さらにカラプヤ語を話すヤムヒル族やアトファラティ(テュアラティン)族(いずれも北部カラプヤ語を話す)、中央カラプヤ語を話すサンティアム族やマディークリーク(チェマフォ)族、ロングトム(チェラメラ)族、カラプーイア(ツァンクピ)族、目アリーズリバー(チェペネファ)族、ルキアミュート族など、そしてヨンカラ語あるいは南部カラプヤ語を話すチュチスニー=タフティ族やサイユスロウ族にモラーラ族などの部族が存在していた[4][38]。 川の名称「ウィラメット」“Willamette”は、クラカマス族の村落名のフランス語読みに由来する[1]。しかし、オレゴン州の先住民の言語は極めて類似しており[39]、この名称はカラプヤ語のとある方言に起源をもつ可能性もある[40]。
1850年ごろ、カラプヤ族の人口は2,000人から3,000人の規模で、複数のグループに分かれていた。グループの数は推測にすぎず、少なく見積もって8グループ、多くとも16グループである[41]。同時期のクラマラス族の人口はおよそ1,800人であった[42]。国勢調査局はチヌーク族の人口を5,000人程度と見積もっているが[43]、チヌーク族全てがウィラメット川流域に居住していたわけではなく、そのテリトリーはコロンビア川渓谷下流域とコロンビア川河口を挟み太平洋岸にそって南北に広がっていた。さらに、ウィラメット川流域の南部まで進出していた時代もあった[44]。先住民の総人口は、約15,000人と推定されている[38]。
ウィラメット川流域の先住民の生活様式はさまざまだった。沿岸部にほど近い下流部における経済基盤は漁業で、コロンビア川流域の先住民と同様、サケが最重要漁業資源であり白人の商人との交易がおこなわれていた。上流域の先住民は支流に堰を築くなどしてニジマスやサケを捕獲していた。ウィラメットバレー北部の部族は定住生活が一般的だった。チヌーク族はプランクハウスと呼ばれる大規模な木造建築に住み、奴隷制を有し、厳格な階級社会を形作っていた[45]。流域南部の民族は遊牧生活をしており、季節に応じて各地を移動し、狩猟や植物採集(特にカマシア)のために、範囲を絞って森に火を放っていた[46]。
18世紀
ウィラメット川が文献に始めて登場したのは1792年で、ジョージ・バンクーバー率いるバンクーバー遠征隊の英国人船長の一人ウィリアム・ブロートン中尉によって記録された[47]。
19世紀
1805年から1806年にかけて行われたルイス・クラーク探検隊の活動において、往路の際に彼らはウィラメット川の合流点に気づきませんでした。復路にサンディー川流域の先住民からの聞き取りでこの見落としを知ったウィリアム・クラークはコロンビア川を下り直し、1806年4月にウィラメット川に到達した[13]。
次にウィラメット川流域を訪れたのは太平洋毛皮会社 (PFC) に雇われた毛皮猟師で、続いて北西会社 (NWC) も参入してきた[48]。シスキュー・トレイル(カリフォルニア=オレゴン・トレイル)は元々先住民が切り開いた道で、ウィラメットバレーから南へ赴くために用いられた。このトレイルの全長は970キロメートル (600 mi)余りに及び、ウィラメット川の合流点からウィラメットバレーを縦断してシスキュー山脈を超え、サクラメントバレーを抜けてサンフランシスコに至る[49]。
1812年、ウィリアム・ヘンリーとアルフレッド・シートンが PFC のアストリア砦から船出してコロンビア川を漕ぎあがってウィラメット川に入り、現在のオレゴン・シティーに位置するウィラメット滝のポッテージを通り抜け、両岸が平坦に広がる場所に居を定めた。後のシャンプーイーであり、二人はここに最初の交易所を設立する。1813年初頭には、ウィリアム・ウォーレスとジョン・C・ハルゼーが、さらに南に遡った現在におけるセーレムの北側に2番めの交易所、ウォーレスハウスを設けた[50]。
米英戦争末期に、NWC が PFC を吸収合併した。無所属の猟師であるレジストレ・ベルエアやジョン・デイ、アレクサンダー・カーソンは、1813~14年の冬にウィラメット川流域で毛皮猟に従事した。シャンプーイー駐屯地には、NWCに雇われた猟師が30人ほど所属していた。米英戦争の末期にはNWCがPFCを吸収合併した。1813年から14年の冬に、未所属の猟師であるレジストレ・ベライアやジョン・デイ、アレキサンダー・カーソンがウィラメット川沿いで毛皮を目的に狩猟活動を行っている。彼らがベースとした「ウィラメット交易所」と今日呼ばれているシャンプーイーの交易所にはNWCの社員が30名前後駐在しており、傍の二軒の小屋に自由民が居住し、近くにはカプラヤ族が野営していた。ネズ・パース族とカイユース族は、NWCに対しウィラメット川の狩猟地に立ち入らないよう警告した。複数の集団が漁場と狩猟地をめぐって、数年にわたって小競り合いをつづけた[50]。
1818年から19年の冬季、トーマス・マッケイが猟師を率いてウィラメット川源頭へ向けて南下し、アンプクア川上流部に到達した。小競り合いは激化し、ほとんどの猟師はジョージ砦(元アストリア砦)へ帰還したが、ルイス・ラボンテ、ジョゼフ・ジャーヴェイス、エティエンヌ・ルシエ、ルイス・カノータ、ルイス・ピチェット(ディ・デュプレ)はウィラメットバレーに残留した[50]。一方、1821年にハドソン湾会社(HBC)がNWCを合併した。1825年にはウィラメット川合流点近くのコロンビア川北岸に新しくバンクーバー砦が建設され、ジョージ砦は閉鎖された。HBCのアレクサンダー・ロデリック・マクロードは、1826年から27年にかけてウィラメット川を遡上し、アンプクア川やローグ川まで探索した。
1829年、ルシエはシャンポーイー交易所の近くに土地の所有権を確立し入植を開始した。すぐにジャーヴェイス(1831年)とピエール・ベレク(1833年)が参加し、1836年には77名のフランス系カナダ人が居住していた。そして1843年までにウィラメット川のそばのフレンチ・プレーリーと呼ばれるようになった地域で100世帯をこえる新たな人々が家庭を築いていた。
1841年、アメリカ合衆国探検遠征隊の一行がシスキュー・トレイルを経由してサンフランシスコへ向かった。彼らはコロンビア川のセリロ滝で行われているような、先住民による大規模なサケ漁がウィラメット滝で行われているのを記録している[51]。
19世紀も中ごろになると、ウィラメットバレーの豊饒な土壌や温暖な気候、豊富な水資源に惹かれて、合衆国東部の主にミズーリ州やアイオワ州のアップランドサウス境界地域やオハイオ渓谷から数多くの人々が入植してきた[52]。そのほとんどはミズーリ州インディペンデンスを起点とし北アメリカ西部を通り抜けてウィラメット川の合流点付近へとつながる、全長が3,490キロメートル (2,170 mi)に及ぶオレゴン・トレイルを辿ってきた。 トレイルを通じたオレゴンへの移住は1836年には始まっていたが、規模が拡大したのは1843年に大規模な開拓団が組まれるようになってからだった。その後の四半世紀で、オレゴン・トレイルを踏みしめておよそ50万人がオレゴンを目指した[53][54][55]。
1830年代が始まると、ウィラメット滝近傍のオレゴン・シティが発展していった。1844年には、ロッキー山脈以西において史上初の自治体法人となった[56]。コロンビア地区のHBC監督官であったジョン・マクローリンは、1829年の町設立に尽力した立役者の一人である[57]。マクローリンはいまだこの地を支配していたHBC上層部に対し、この地域へのアメリカ人の入植を許可するよう上申し、あらゆるHPC本部の命令を無視してアメリカ人入植者へ多大な援助を行った[58]。オレゴン・シティーの発展はウィラメット滝の水力によって稼働する製材所と製粉所に支えられていたが、滝自体が河川水運の障害となっていた。1843年にはオレゴン・シティーの対岸に、リン・シティが築かれた(最初の名称はロビンズ・ネストであった)[59]。
1851年にポートランドが設立すると、瞬く間にオレゴンで最大の都市となり、オレゴン・シティーのウィラメットバレーにおける経済的・政治的中枢としての重要性は徐々に失われていった。1850年代になると、ウィラメット滝の区間を航行できないというハンディーを抱えながらも、蒸気船の運行がウィラメット川で開始された[60]。これにより、ウィラメット川の航路は下流部の(他のコロンビア水系の河川と連結する)ポートランドからオレゴン・シティまでの43キロメートル (27 mi)の区間と、ウィラメット川の延長の大半を占める上流部の区間の2つに分かれた[61]。滝を超えて貨客を運ぶ必要のある船主は滝の脇の陸路を利用するしかなく、滝の両岸では様々な企業が輸送ビジネスで競った[62][63]。1873年、ウィラメット滝閘門が完成して滝の迂回が可能になり、川の上流と下流間の航行が容易になった。各閘室は長さ64メートル (210 ft)、幅12メートル (40 ft)あり、電力供給が始まるまでは手動操作だった[63]。閘門の利用は1940年代をピークに減少し、21世紀に入るとほとんど使われなくなり[64]、2011年に閉鎖された[65]。
下流域で商工業が盛んになるにつれて、初期の入植者はそのほとんどがウィラメットバレーの上流域で農場を取得した。1850年代の末までに、利用可能で肥沃な大地の大半が穀物畑に変わった[66]。入植者は先住民の土地を次々と侵食していき、ウィラメット川の南西部に位置するアンプクアバレーやローグバレーでは先住民と入植者の間で小競り合いが起こり、オレゴン州政府は兵力を出して先住民の排斥に動いた[67]。先祖から受け継いだ土地を追われた彼らは、まずウィラメットバレーに連行され、すぐにコースト・インディアン居留地へと移送された。1855年、オレゴン州代議士であったジョエル・パーマーは、ウィラメットバレーの先住民と次々に条約を交わしていき、渋々ながら土地の割譲に同意させた[68][69]。その後、先住民は政府の手によりコースト・インディアン居留地の一角(のちのグランド・ロンド・コミュニティ)への移転を強制された[69]。
1879年から1885年にかけて、米国沿岸測地測量局の測量技師兼製図家であったクリーブランド・S・ロックウェルの手により水路図が作成された。ロックウェルはウィラメット川下流部をロス島の下手からポートランドを経由してコロンビア川まで調査し、さらにコロンビア川を下ってバチェラー島まで足を延ばした[70]。ロックウェルの調査は17,782か所に及ぶ水深測量を実施するなど極めて詳細なものであった。彼の仕事はポートランド港の商業開放に貢献した[71]。
19世紀後半、米国陸軍工兵隊はウィラメット川流域の水路を浚渫し、閘門や堤防を建設した。木材などの製品は、オレゴン州内の鉄道網を利用して輸送されることが多かったが、このような航路の改善により、民間企業による製品をポートランドに集積し、その経済成長に貢献した。また、ウィラメット川合流点の水深が増したため、ポートランドの北に広がるコロンビア流域から交易品がウィラメット河経由で南へ輸送することも可能となった[72]。
20世紀から21世紀
20世紀初頭までに、大規模な治水計画が立ち上がった。市街地に面した岸辺には次々と堤防が築き上げられ、ポートランドではダウンタウンを守るためにコンクリートの護岸が建設された[15]。さらに数十年をかけて、カスケード山脈を流れ下る支流の各地に大規模ダム建設が進められた。陸軍工兵隊は13か所のダムを管理しており、その上流域は流域面積の40%に相当する[73]。大半のダムに魚道は設けられてない[74]。
川の傍で開発が進むとともに水質汚染も進行した。1930年代の後半までに、汚染を食い止める取り組みが実を結び、浄化活動を監督する州立衛生委員会が設立した[4]。1960年代には、州知事のトム・マッコールが水質汚染対策に辣腕を振るった[75]。この点においてマッコールは、州の財務官で後の州知事(1975年)であり、1966年の州知事選挙の対立候補として、最初にウィラメット・グリーンウェイ計画を提唱したロバート・W・ストローブから助言を受けている[76]。オレゴン州議会が1967年にこの計画を承認し、それを受けて、州政府と地元自治体は川の沿線に講演や自然歩道、野生生物保護区を整備拡充した[47]。1998年には合衆国大統領ビル・クリントンにより、ウィラメット川は14河川からなる歴史遺産河川に選定された[77]。2007年までに、グリーンウェイは170区画を超えて拡大し、その中には10か所の州立公園が含まれる[47]。川面と岸辺の土地は、キャンプや水泳、釣り、ボート、ハイキング、サイクリング、野生動物の観察などのために開放されている[47]。2008 年、州政府と非営利NGOのウィラメット・リバーキーパーは、「ウィラメット川ウォータートレイル」として川の全長を認定した[78]。その4年後に国立公園局は、支流を含めた延長349キロメートル (217 mi)を国立レクリエーション・トレイルに登録した。このウォーター・トレイル制度は合衆国内の水路を保全し、水路とその周辺におけるレクリエーション活動の充実を目的としている[79][80]。
1991年、ポートランド市とオレゴン州は合流式下水道の越流に対する劇的な改善策に合意し[81]、ビッグパイプ計画が開始された。この計画は、14億4,000万ドルの費用をかけて2011年に竣工したポートランドの下水道越流対策事業の一環であり[82]、往々にして豪雨時に越流を起こしていた雨水の流入から市の公共下水道を分離することを目的とする。この事業により、大雨時に未処理の汚水を下水処理場ではなく川へと排水可能になった。ビッグパイプ計画と関連事業により、下流域の合流式下水道の越流は94パーセント削減されている[83][84]。
2017年、ヒューマン・アクセス・プロジェクトはポートランド市公園局と共同で、ポートランド初の遊泳用公認パブリック・ビーチ「ポエッツ・ビーチ」を開設した[85][86][87]。
- ^ a b Bright 2004, p. 567.
- ^ a b c d e f USGS 1980 出典の示す位値の標高はGoogle Earthから引用。
- ^ WillametteRiverkeeper 2016.
- ^ a b c d e f g h OregonEncyclopedia 2014.
- ^ Impress 2023.
- ^ a b c d e DeLorme 1991.
- ^ a b Portland 2012.
- ^ OSMB 2012.
- ^ a b SEI 2001.
- ^ Laenen and Dunnette 1997, p. 24.
- ^ a b c d Benke&Cushing 2005, p. 617.
- ^ Kammerer 1990.
- ^ a b c d e f Benke&Cushing 2005, p. 616.
- ^ a b c USGS14211720 2017.
- ^ a b c d USACE 1983.
- ^ ODSL 2012.
- ^ Caldwell 1995.
- ^ NWS 2023.
- ^ a b c d e f g Wallick et.al. 2007, pp. 495–497.
- ^ a b c Orr 2012, pp. 188–189.
- ^ Orr 1999, p. 203.
- ^ Orr 1999, p. 206.
- ^ Orr 1999, p. 208.
- ^ Oregonian 2000.
- ^ a b Orr 1999, pp. 212–213.
- ^ a b Orr 1999, p. 214.
- ^ a b Orr 1999, pp. 215–219.
- ^ Ludwin et.al. 1996.
- ^ ODGMI 2018.
- ^ CT 2010.
- ^ Loy et.al. 2001, pp. 168–169.
- ^ PNW HO 2010.
- ^ a b c USCB 2010.
- ^ Corvallis 2016.
- ^ Albany 2016.
- ^ a b c d e Benke&Cushing 2005, pp. 616–617.
- ^ NPS 2023.
- ^ a b c Spores 1993.
- ^ Campbell 1997, p. 120.
- ^ Bob 2010.
- ^ Thornton 1990, p. 125.
- ^ NG 1996.
- ^ Snipp 1989, p. 344.
- ^ Ruby&Brown 1976, p. 4.
- ^ Ruby&Brown 1976, p. 16.
- ^ Deur&Turner 2005, p. 220.
- ^ a b c d e f OSMB 2007.
- ^ Mackie 1997, p. 115.
- ^ Engeman 2009, p. 63.
- ^ a b c Kohnen 2007.
- ^ Wilkes 1845, pp. 341–374.
- ^ Meinig 1998, p. 71.
- ^ ISU-Intro 1997.
- ^ ISU 1997.
- ^ OCTA 2018.
- ^ OBB 2018.
- ^ Samson 2010, p. 125.
- ^ Holman 1907, pp. 96–97.
- ^ McArthur 2003, p. 1022.
- ^ Gulick 2004, pp. 28–29.
- ^ Gulick 2004, p. 22.
- ^ Timmen 1973, pp. 14, 17, 27.
- ^ a b Lewis 2006.
- ^ Balingit 2006.
- ^ USACE 2019.
- ^ OPB 2000.
- ^ Edwards&Schwantes 1986, p. 61.
- ^ Edwards&Schwantes 1986, p. 62.
- ^ a b Jette 2010.
- ^ USCGS 1887, p. 76.
- ^ Stenzel 1972, pp. 37–39.
- ^ Willingham 2022.
- ^ a b NatureCon 2010.
- ^ NOAA NRO 2012.
- ^ a b Williams 2009, p. 131.
- ^ Johnson 2012, p. 125.
- ^ USEPA 2009.
- ^ Karas 2015.
- ^ AmericanTrails 2020.
- ^ NPS 2020.
- ^ Bacon 2003.
- ^ Slovic 2011.
- ^ Portland 2016.
- ^ Oregonian 2007.
- ^ Law 2017.
- ^ SeattleTimes 2017.
- ^ Labrecque 2017.
- ^ a b LIHI 2014.
- ^ a b OWRD 1998.
- ^ CRBFC 2012.
- ^ a b USACE 2016.
- ^ USGS-map 2010.
- ^ CP 2015.
- ^ Reinhardt 2010.
- ^ a b House 2015.
- ^ Learn 2011.
- ^ PGE 2016.
- ^ Smith et.al 1989, p. 287.
- ^ USGS 2012.
- ^ Smith et.al 1989, p. 96.
- ^ TopoQuest_OregonCity 2010.
- ^ Smith et.al 1989, p. 78.
- ^ Topo_Ross 2010.
- ^ Lum 2015.
- ^ Trimet 2013.
- ^ Rose 2011.
- ^ Smith et.al 1989, p. 115.
- ^ a b Wortman 2006.
- ^ PBT 2013.
- ^ a b Smith et.al 1989, p. 208.
- ^ Wortman 2006, pp. 39–44.
- ^ Smith et.al 1989, p. 116.
- ^ a b Smith et.al 1989, p. 113.
- ^ Topo_Linnton 2010.
- ^ CCRH 2016.
- ^ a b c d Allen 2004.
- ^ AWF 2013.
- ^ Thomas 2016.
- ^ philadelphiaRecord 1890, p. 1.
- ^ a b NYTimes 1890.
- ^ VancouverSun 1942, p. 1.
- ^ RegisterGuard 1943, p. 1.
- ^ ReadingEagle 1943, pp. 1, 18.
- ^ SpokesmanReview 1946, p. 2.
- ^ PortlandParks 2013.
- ^ Hall 2001, p. B3.
- ^ TelegraphHerald 1948, p. 16.
- ^ a b Gregory et.al 2010.
- ^ TricityHerald 1964, p. 20.
- ^ SpokesmanReview 1964, p. 2.
- ^ NevadaDaily 1964, p. 1.
- ^ PittsburgePress 1965, p. 1.
- ^ LewistonDaily 1965, p. 1.
- ^ a b DeseretNews 1996, p. A4.
- ^ Taylor 1996, p. 2.
- ^ Barnard 1996.
- ^ RegisterGuard 1996, p. 3C.
- ^ RegisterGuard & 199610, p. 5C.
- ^ Williams 2009, p. 132.
- ^ Sarasota 1973, p. 20A.
- ^ USEPA 2017, p. 88.
- ^ ODEQ 2009.
- ^ VanderVoo 2007.
- ^ ODEQ 2006.
- ^ USEPA 2017, p. 144.
- ^ AmericanRivers 2016, p. 140.
- ^ USGS 2008.
- ^ Knudson&Barg 2008, p. 2.
- ^ ODEQ 2008, p. 6.
- ^ ODEQ 2008, pp. 7–10.
- ^ a b c Benke&Cushing 2005, p. 619.
- ^ a b Benke&Cushing 2005, pp. 620–621.
- ^ OHJV 2001.
- ^ USFWS-a 2015.
- ^ USFWS-b 2015.
- ^ Zaveri 2011.
- ^ FederalRegister 2023.
- ^ a b Benke&Cushing 2005, pp. 621.
固有名詞の分類
- ウィラメット川のページへのリンク