イリオス イリオス遺跡

イリオス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/12 03:54 UTC 版)

イリオス遺跡

トロイの考古遺跡
トルコ
トロイの考古遺跡
英名 Archaeological Site of Troy
仏名 Site archéologique de Troie
登録区分 文化遺産
登録基準 (2),(3),(6)
登録年 1998年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
使用方法表示

シュリーマンによる発掘

ハインリヒ・シュリーマンによって発掘が行われるまで、イリアスは神話上の架空都市にすぎないというのが一般の通念であった。

このような常識に対し、シュリーマンは自著『古代への情熱』で、幼いころにイリアスの子供向けの物語を読み、イリアスは実際に起きた出来事をもとにした物語だと考えて発掘を決意し、資金を集めるために商人になったと述べている。

1868年、シュリーマンはトロイアのあった場所としてダーダネルス海峡西端のチャナッカレ近郊にあるヒッサリクの丘(en)に見当をつけた。アキレウスヘクトールを追い回すことができるような場所、近くにイリアスに書かれた川(スカマンドロス河)があるような場所が他にないというのが彼の説明である。

1870年、シュリーマンは、私財を投じてトロイアの発掘を開始。この発掘には既に功績を挙げたオリンピア発掘隊もかかわっている。シュリーマンの狙いは正しく、曲輪に囲まれた遺跡を発掘した。ヒッサリクの丘の遺構は複数の層から成っており、シュリーマンは火災の跡があった第II層をトロイアだとした。しかし、後の研究の結果、この層はトロイア戦争があったとされる時代よりも前の時代のものであった。

シュリーマンの発掘が学会で認められるには時間がかかった。当時の常識に反している上に、シュリーマンがまったくの素人だったからである。確かにシュリーマンの間違った推定と発掘により、遺跡の考古学的価値は大きく傷ついていた。しかし、当時は現代的な意味での考古学は未整備な状況であった。

イリオス遺跡の構成

イリオス遺跡からの眺め
Troy IXでオデオン、紀元前124年

第I層-第V層

現在までの調査によると、イリオスの遺跡は9層から成り、シュリーマンが『イーリアス』当時のトロイアのものだとした第II層Gは、紀元前2500年から紀元前2200年のものだということがわかった。第I層、すなわち最初の集落は紀元前3000年頃に始まっており、初期青銅器時代に分類される。第II層は、エーゲ海交易によって栄えたと考えられており、トロイア文化ともいうべき独自の文化を持っていた。城壁は切石の下部構造を持ち、入り口は城壁を跨ぐ塔によって防衛されている。しかし、その後の第III層から第V層は繰り返し破壊されており、発展的状況は認められない。

第VI層

紀元前1800年から紀元前1300年に至る第VI層において、イリオスは再び活発に活動を始めている。遺跡の中心部はシュリーマンの発掘によって大きく削られてしまったため、後の時代の遺構はほとんど何も残っていないが、第二層を取り囲むようにして増築された第六層時代の拡張域は比較的多く残存している。

第六層はイリオスが最も繁栄した時代と考えられているが、拡張された部分を含めてもその城域は直径200m程度で都市と言うには矮小なため、多くの研究者は長い間、実際のイリオスは町というよりもむしろ交易や軍事の拠点と言うべき地であったと見なしてきた。しかし、80年代以降に最新の機器を用いた探査では丘から数百メートル南に離れた地点で第Ⅵ層の時代に作られたと思われる壕や門、柵などを含む遺構が確認され、城壁のすぐ外側でも密集した家屋の跡が発掘されたため、この場所がそれまで考えられていたよりも遥かに広大な居住地であった可能性が高まった。この事を踏まえると都市の規模は丘の周辺の約30ヘクタール(直径600メートル程度)、人口はおよそ1万人程度というそれなりの大きさであった事が窺える。したがって、現在ではこの第Ⅵ層から第Ⅶ層までをホメロスが描いた時代に比定する説が有力である。

この時期に城塞の規模が拡張され、更に丘の外の平野部にまで居住地が広がった事で、後期青銅器時代の主要な都市の一つとして栄えたと考えられている。城外の遺構が少ない事に対する説明としては人家等の重要でない施設は朽ちやすい木造であった可能性が指摘されている(壕や門に関しては防衛設備ではなく放牧の為の囲いであった可能性もある)。

第Ⅶ層以降

第六層は紀元前1300年頃におそらく地震によって崩壊したがその後すぐに第ⅦA層が再建され、城壁など幾つかの古い施設は継続して使用されていた。出土品の様式に文化的な差異が見られない為、住民も第六層の時代と同じ人々で構成されていたと見られている。 しかし、第六層の城塞内には上流階級の邸宅と見られる比較的大きな建物が広い間隔をとって建てられていたのに対し、この時代には数多くの小規模な家屋が隙間なく密集して建てられ、より混雑した空間となっていた。外国由来の品も減少傾向にあるため、何らかの好ましくない変化に直面していたことが窺える。

第VII層Aはすぐに崩壊し、後に貧弱な第VII層Bが続いていた。その後に第VIII層、第IX層が続くが、これらはギリシア人・ローマ人による町の遺構である。

トロイア戦争の時代を、ヘロドトス紀元前1250年エラトステネス紀元前1184年、Dourisは紀元前1334年と推定した。トロイア戦争時代と推定される第VII層の発掘では、陶磁器の様式から、紀元前1275年から紀元前1240年と推定されている。

備考

シュリーマンの発掘した遺跡がトロイア戦争の舞台として登場する古代都市イリオスであるか否かは議論のわかれるところである。ホメロスの『イーリアス』には複数の都市に関する伝承が混合している可能性が指摘されており、その複数の都市の中に、シュリーマンが発掘したこのトロイア遺跡が含まれているということについては概ね合意が得られている。しかし、ホメロスの『イーリアス』それ自体に考古学的事実と符合しない部分があり、また、最も重要な証拠となるべき第VII層の大部分がシュリーマンの発掘によって消失しているので、イリオス遺跡が伝説上のトロイアであるという決定的な証拠はない。ホメロスの伝承が全く架空の伝承とする立場もないわけではない。

とは言え、この遺跡の発掘が考古学の発展に与えた影響は大きく、そういった意味からもユネスコの世界遺産に登録されている。

ヒッタイトの記録によるイリオスとトロイア

イーリオス(トロイア)
断面図

紀元前13世紀中ごろのヒッタイトトゥドハリヤ4世時代のヒッタイト語史料に、アナトリア半島西岸アスワ地方の町としてタルウィサが登場する。これはギリシア語史料のトロイアに相当する可能性が示唆されている。また、同史料にウィルサ王アラクサンドゥスが登場する。これもそれぞれギリシア語史料のイリオスとアレクサンドロスに相当する可能性が示唆されている。

トゥトゥハリヤ4世の治世はヒッサリク遺跡の第VII層Aの時代と一致しており、パリスの別名がアレクサンドロスであったことが知られている。このため、この史料の記録はギリシア史料によるトロイア戦争となんらかの関係があるのではないかと推測されている。

20世紀の発掘調査




「イリオス」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「イリオス」の関連用語

イリオスのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



イリオスのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのイリオス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS