堅壁清野
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堅壁清野(けんぺきせいや)は、焦土作戦の一種。清野作戦ともいう[1]。城壁に囲まれた市街地内に人員を集中させ(堅壁)、城外は徹底して焦土化する(清野)ことで、進攻してきた敵軍は何も接収できないようにして[2]疲弊させ、持久戦を有利に運ぶ狙いで行われる。
- ^ a b c 笠原十九司『南京事件』岩波書店、1997年、120頁。
- ^ 王定安「求閥斎弟子記」。荒武達朗「清末民国期莒州大庖鎮の荘氏と地域社会:成豊年間捻匪の襲来を中心に」徳島大学総合科学部人間社会文化研究9,2002,p92
- ^ 焦土(中国語記事)
- ^ 世界大百科事典 第2版『堅壁清野』 - コトバンク
- ^ 波多野澄雄 庄司潤一郎:日中歴史共同研究2010.近現代史「第2部第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦」
- ^ a b c d e f g h i 李昌鎬「朝鮮戦争期の民間人虐殺事件に対する 刑事法的対応 ――山清,咸陽,居昌の民間人虐殺事件を中心に――」立命館法學 2012(2), p1157-1184.
- ^ 魯迅「堅壁清野主義」1926年1月「新女性」創刊号、上海。魯迅選5巻、岩波書店 1956
堅壁清野
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『ニューヨークタイムズ』は「中国軍の放火による財産破壊の額は、容易に2000万から3000万ドルに達する。これは南京攻略に先駆けて数カ月にわたって行われた日本軍の南京空襲による破壊より大きいものであり、おそらく、南京攻撃における日本軍の爆撃や占領後の日本軍部隊によってもたらされた被害に匹敵するであろう。中国軍指導部は、軍事的必要性から、市周辺全域を焼き払ったと常に説明していた。」と報じた。 笠原十九司によれば、中国軍が強行した「清野作戦」の結果、食糧略奪と民家宿営に頼ってきた中支那方面軍の諸部隊は、城外区域に駐屯することができず、「注意事項」で厳禁された城内駐屯をせざるをえなくなり、食料物資の略奪が城内で行われることになり、道路沿いの農村が焼き払われたため、諸部隊の食糧徴発行動はさらに遠隔の農村にまで波及した、という。
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