アントン (ジャライル部)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > アントン (ジャライル部)の意味・解説 

アントン (ジャライル部)

(antong から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/11 22:21 UTC 版)

アントンAntong, Antum, Hantun, 安童、1245年 - 1293年)は、大元ウルス時代にその初代でもある第5代モンゴル帝国皇帝(カアンクビライに仕えた政治家、宰相(中書右丞相)。『元史』などの漢文史料では安童、『集史』などのペルシア語史料ではهنتون نويان(Hatūn Nūyān)、 انتون نويان(Antūn Nūyān)などと表記される。

チンギス・カンに仕えたジャアト・ジャライル部族出身の功臣、ムカリ国王家の出身で、ムカリの曾孫。ムカリの子・ボオルの3男・バアトルが父にあたる。母親はチンギス・カンの第一夫人ボルテの姪で、クビライの皇后チャブイの姉にあたる。息子にウドゥルタイ(兀都帯、バイジュの父)がいる。

概要

13歳でケシクテイ(宿営)に入る。クビライの信任が厚く、それに近侍した。クビライがモンゴル帝国帝位継承戦争に勝利した際にアリク・ブケ側に付いた者たちに対する寛大な処分を勧めてクビライに評価され、1265年には早くも光禄大夫、中書右丞相に抜擢され食邑四千戸まで加増を受けた。後に平章政事であるアフマド・ファナーカティーと対立するが、1274年に彼の不正行為をあばいて失脚させた。翌1275年には皇太子チンキムや北平王ノムガンとともにカイドゥ討伐に向かい、カラコルムに入ったノムガンとその庶弟である皇子ココチュに扈従し、カラコルム周辺を領していたモンケ家、アリク・ブケ家などの王族との調停に勤めた。

しかし、1276年にノムガン率いる遠征軍がカイドゥの支配領域の面前であるアルマリクに駐留していた時、軍中のモンケ家の四男シリギが、モンケ、クビライらの庶弟ソゲドゥの息子(ないし孫)トク・テムルの先導によっての他のトゥルイ家をはじめとする王族たちと共謀して反乱を起こした(シリギの乱)。このため、アントンはノムガンとココチュらととも捕縛され、トク・テムルとシリギはノムガンとココチュの兄弟をジョチ・ウルスの当主モンケ・テムルに引き渡し、アントンはカイドゥに引き渡して両陣営に対して自らの反乱への参加を促した。しかし、カイドゥもモンケ・テムルもこの誘いをほぼ黙殺し、シリギの乱はバヤンの派遣などによって鎮圧された。1284年に大都に帰還すると、右丞相に復職し、翌1285年にはアントン不在中に専権を振るった盧世栄の不正行為をあばいて失脚させて、獄死に追い詰めた。ところが、1287年に新しく平章政事となったサンガと対立してその不正を糾弾するも、クビライに取り上げられなかったことから権威が失墜し、1291年に右丞相を退いた。この年、サンガの不正行為があばかれて失脚するものの、アントンは復権することができずに2年後に没した。

ジャライル部バアトル系国王ムカリ家

参考文献

  • 長沢和俊「アントン」(『アジア歴史事典 1』(平凡社1984年))
  • 原田理恵「元朝の木華黎一族」(所収:『山根幸夫教授追悼記念論叢 明代中国の歴史的位相 下巻』(汲古書院、2007年)
  • 元史』巻126列伝13安童伝
  • 新元史』巻119列伝16安童伝
  • 蒙兀児史記』巻87列伝69安童伝
  • 国朝名臣事略』巻1丞相東平忠憲王



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アントン (ジャライル部)」の関連用語

アントン (ジャライル部)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アントン (ジャライル部)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアントン (ジャライル部) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS