XとDとの男女関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/07/09 12:24 UTC 版)
「北九州監禁殺人事件/del20140716」の記事における「XとDとの男女関係」の解説
Xの証言によると、1984年秋にYの母Dから「Yと別れて欲しい」と持ちかけられたという。DとしてはXが妻と離婚してYと再婚して自分の家に婿養子入りすることを約束する「事実確認書」があるとしても、Xの法律婚は継続していたため、Xを完全に信用していなかったと思われる。 Xの証言によると、XはD(当時44歳)に人目のない所で話がしたいと持ちかけ、Dを郊外のラブホテルに連れ込んで肉体関係を結び、その後は会うごとに肉体関係を結んだという。一方で「母DはYを心配しておらず、Xに会いたがっている」とXから聞かされたYはDに嫌悪感を抱き、日記に「同じ血が流れているのが嫌になる」と書いている。Dのこの対応で、結果としてXが1992年までの数年間法律婚を継続したまま娘Yと母Dと同時並行的に男女交際が継続となったために問題は一層複雑化し、娘Yと母Dに緊張関係を生じさせる素地を形成した。またXとDの関係は地元では噂になっていた。 なお、Yは事件による逮捕後の法廷証言ではXと母Dの男女関係のキッカケについて「同意による関係でなく、強姦という形で関係を持った」と推測し、母Dについて「私がXと男女関係をもったために、母DはXと男女関係になり虐待されて殺害されるという形で事件に巻き込んでしまった。もし、母がXと男女関係を続ける中で女として悦びを感じる瞬間があったとしても、私は母を恨んだり憎んだりしません」と擁護した。XはDとの肉体関係についてはDが積極的に誘ってきたのがキッカケと主張しているが、検察はYが主張する強姦説を取っている。 XとDの関係について、マスコミには「想像できないような大変センセーショナルな内容」「ミイラ取りがミイラになる男女の仲」「Xは愛人Yの母Dとも20年来の愛人であった」「母DはXがこしらえた舞台で右往左往する大役を演じた」と表現された。
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