Manasluとは? わかりやすく解説

マナスル【Manaslu】


マナスル

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/29 04:05 UTC 版)

マナスル
マナスル・ベースキャンプから
標高 8163 m
所在地 ネパールガンダキ県
位置 北緯28度33分00秒 東経84度34分00秒 / 北緯28.55000度 東経84.56667度 / 28.55000; 84.56667座標: 北緯28度33分00秒 東経84度34分00秒 / 北緯28.55000度 東経84.56667度 / 28.55000; 84.56667
山系 ヒマラヤ山脈
初登頂 今西壽雄・ギャルツェン・ノルブ
1956年5月9日
マナスル
マナスル
プロジェクト 山
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マナスル登頂記念切手

マナスルManaslu, ネパール語: मनास्लु)は、ネパールヒマラヤ山脈に属し、標高8163 mは世界8位である[1][2]

山名はサンスクリット語で「精霊の山」を意味するManasa[要出典]から付けられている。

初登頂は1956年5月9日[3]今西壽雄とギャルツェン・ノルブら日本隊によって達成されている。堀田弘司は『山への挑戦』で「この成功は戦後の日本登山界に画期的な影響があり、空前絶後の登山ブームを巻き起こすなど社会現象になった」と著している[3]。登山隊が使用したビブラムソールや[3]、ナイロン製クライミングロープなどの[4]、新鋭機材は急速に普及した[3]

登頂の歴史

  • 1950年 - ビル・ティルマンが偵察を行い、最も容易なルートは北東からのルートだと考えた。
  • 1952年 - 日本隊が標高5275 m地点に到達。
  • 1953年 - 日本山岳会隊(三田幸夫隊長)が標高7750 m地点に到達。
  • 1954年 - 日本山岳会隊(堀田弥一隊長)が遠征するも、宗教上の理由から登山活動に反対する現地民の妨害により断念。ガネシュヒマールに目標変更を余儀なくされる。
  • 1956年5月9日 - 槇有恒ら12人の日本山岳会隊の今西壽雄、ギャルツェン・ノルブが初登頂に成功。
    • 5月11日 - 加藤喜一郎、日下田實が頂上に立った。
    • 11月3日 - 日本山岳会隊の登頂を記念した記念切手郵政省から発行された。
    • 毎日新聞写真部員の依田孝喜隊員が撮影した記録映画「マナスルに立つ」により、依田は1957年、第5回菊池寛賞を受賞。
  • 1971年5月17日 - 小原和晴ら11人の日本隊が北西側から登頂。
    • キム・ホスプが韓国隊を率いて北東側から挑戦するが、キム・キスプが転落死したため断念。
  • 1972年 - ウォルフガング・ナイルツ率いるオーストリア隊が南西からの初登頂に成功、隊員のラインホルト・メスナーが頂上に立つ。無酸素初登頂。
    • 4月10日 - 北東側から挑戦していた韓国隊が雪崩に襲われ、10人のシェルパを含む16人の死者を出した。この中には、カメラマンとして参加していた鵬翔山岳会の安久一成も含まれている。
  • 1973年 - ゲルハルト・シュマッツ率いるドイツ隊が登頂に成功。
  • 1974年5月4日 - 中世古直子らの日本の女性隊が登頂に成功。初の女性による8000メートル峰の登頂となったが、翌5日に一人が行方不明となる。
  • 1975年 - ヘラルド・ガルシア、ジェロニモ・ロペスらスペイン隊が登頂に成功。
  • 1976年10月12日 - 日本山岳協会・イラン山岳連盟遠征隊(総隊長ハクビッツ、隊長渡辺公平、登攀隊長田村宣紀)影山淳、ジャファール・アサディ、ポストモンスン初登頂。
  • 1980年4月28日 - リ・インジュン率いる韓国の東国大学校隊が登頂に成功。
  • 1981年5月19日 - オーストリアの旅行社が企画した国際公募隊による遠征が行われ、ペーター・ヴェルゲッターとゼップ・ミリンガーが山頂からスキー滑降
  • 1981年10月 - 加藤保男隊長、尾崎隆らがシェルパなし無酸素登頂。
  • 1984年1月11日 - ポーランド隊のマチェイ・ベルベカとリシャルド・ガエフスキが冬季初登頂。
  • 1985年12月14日 - 山田昇、斉藤安平が無酸素アルパインスタイルで登頂。
  • 1986年 - イェジ・ククチカ、アルトゥール・ハイゼルが北東壁新ルートをアルパインスタイルで初登頂。
  • 1991年 - ハンス・カマランダー擁するイタリア・ドイツ合同隊が登頂を目指すが、滑落や落雷の直撃で二人が遭難死。
  • 2006年11月5日 - 片山右京が登頂[5]。この年に登頂した日本人は10名[6]
  • 2012年9月23日 - 標高7400 m付近の巨大なセラック(氷塔)が崩壊し、大規模な雪崩が発生。午前5時頃にキャンプ3(標高6800 m)の25張、キャンプ2(標高6360 m)の12張を雪崩が直撃した。11人の死亡者および行方不明者を出す大惨事となった[7]
  • 2013年10月2日 - タレントのイモトアヤコと日本テレビ撮影隊が登頂[8]。この年は9月25日と10月2日が登頂可能日で、日本人は、9月25日に9名、10月2日に19名登頂している[9]
  • 2023年9月27日-女性YouTuberこと、かほちゃんが登頂成功した。

登山

公募登山

2000年代後半以降、中国側から登るチョ・オユーシシャパンマの入山許可が安定しないことを嫌った公募隊がマナスルに流れ、登山者が急増し、そのため登頂難易度が下がった[10]エベレストの前哨戦として登られることも多い[10]。ただしマナスルはエベレストに比べると雪崩の危険が高い山である[11]。マナスルは秋に有力な公募隊が集まり、ほとんどの人は秋に登頂する[12]。公募登山(ツアー)は複数の団体が提供していて、日程は5~6週間程度、金額は数百万円程度。日本人がガイドするものもある。2022年の登頂者数は273名(全員秋の登頂)、死者は1名[13]

紛らわしい偽ピーク

山頂の手前には紛らわしい偽ピークが存在することが、1956年に登頂した日本山岳会の登山隊により報告されている。1974年に登頂した日本の女性隊の内田昌子は、この話を覚えており、偽ピークで登頂を主張するシェルパを押しのけて本来の山頂へ向かっている[14]

脚注

出典

  1. ^ ネパールで式典「仲間に恵まれ感謝」”. 毎日新聞 (2016年4月30日). 2018年5月26日閲覧。
  2. ^ 山と溪谷』2017年9月号、山と溪谷社、 122頁。
  3. ^ a b c d 堀田 1990, pp. 44–66.
  4. ^ 堀田 1990, pp. 115–138.
  5. ^ 片山右京の新たな挑戦 - モータースポーツ - Number Web - ナンバー
  6. ^ Manaslu - Himalayan Database Expedition Archives of Elizabeth Hawley
  7. ^ 池田常道『現代ヒマラヤ登攀史』(山と渓谷社,2015年)
  8. ^ マナスル登頂(山岳ガイド、技術スタッフ編) | イモトアヤコ オフィシャルブログ powered by Ameba
  9. ^ Manaslu - Himalayan Database Expedition Archives of Elizabeth Hawley
  10. ^ a b かくも多様な。 石川直樹公式ブログ2011年4月11日
  11. ^ 池田常道『現代ヒマラヤ登攀史』山と溪谷社、2015年
  12. ^ About Manaslu:Alan ArnetteHimalayan Database Season Lists
  13. ^ Manasulu - Himalayan Database Expedition Archives of Elizabeth Hawley
  14. ^ 「ウーマンパワー8000メートル 危うくニセ頂上 シェルパのサボ見破る」『朝日新聞』昭和47年(1974年)6月10日夕刊、3版、11面

参考文献

  • 堀田弘司『山への挑戦 : 登山用具は語る』岩波書店〈岩波新書〉、1990年。ISBN 4-00-430126-2 
  • 池田常道『現代ヒマラヤ登攀史 : 8000メートル峰の歴史と未来』 山と溪谷社〈ヤマケイ新書〉、2015年、ISBN 978-4-635-51000-4

関連文献

関連項目

外部リンク


マナスル (ストーブ)

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/03 16:23 UTC 版)

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マナスルManaslu)は、アウトドア用灯油ストーブ焜炉)のブランドである。

マナスルは、1928年(昭和3年)にピッケルなどの登山用品メーカーとして創業した飯塚運動具製造株式会社により、1957年(昭和32年)より生産されたポータブルストーブである。当初は同社のブランドであった“ホープ”が頭についた“ホープ・マナスル”の名称で販売されており、1965年(昭和40年)ごろ飯塚運動具製造はホープに社名を変更、1980年(昭和55年)の同社解散以降は吉川製作所で製造されており、スター商事が販売代理店を行なっている。

現在ガス式が主流のアウトドア用ストーブの分野において数少ない灯油を燃料とするポータブルストーブであり、ブランド名はネパールマナスルに因む。マナスル・ストーブ発売の前年の1956年(昭和31年)、日本人登山家の今西壽雄によりマナスルが初登頂されており、これを気に日本国内に起きた第一次登山ブームの背景の中で選定された名前であったという。

今日販売されている3種類の製品は、いずれもスウェーデンのプリムス・ストーブ(現イワタニ・プリムス)、ラジウスAB Radius)の製品をモデルにしたといわれる。これらのトーチ・ランプ英語版の技術を応用したストーブは世界中のメーカーで無数の類似品が製造されたが、マナスル製ストーブは燃料タンクに安全弁が設けられており、バーナーの熱で過熱された際に圧力を放出しタンクの破裂を防ぐ安全構造を採用していることが特徴である。また五徳に載せて使用する遠赤外線式ヒーターユニットが用意されており、暖房器具としても利用できる。

主な製品

96
約700gの小型のケロシンストーブ。燃焼時間1.5時間。
121
約850gの小型のケロシンストーブ。燃焼時間2時間。
126
約930gの小型のケロシンストーブ。燃焼時間4時間。

過去の製品

飯塚運動具製造株式会社時代にホープ・ブランドで展開されていたが、現在では製造されていない。いずれの製品もオリジナルには元々存在しない燃料タンクの安全弁を独自に追加し、安全性と信頼性を高めていることが特徴であった。

160
オプティマス8Rをモデルとして製造された自然加圧式ガソリンストーブ。
300
コールマン538(M-1950 GIポケットストーブ英語版)をモデルとして製造されたガソリンストーブ。
350
ホエーブス625をモデルとして製造されたガソリンストーブ。

関連項目

  • 武井バーナー - プリムス・ストーブを範に独自の着火装置を搭載したパープル・ストーブを製造。なお、同社の創業は飯塚運動具製造と同じ昭和3年である。

外部リンク



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