2代目玉目丹波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 09:08 UTC 版)
「玉目丹波守 (初代)」の記事における「2代目玉目丹波」の解説
慶長16年(1611年)に加藤清正が逝去すると、家督を相続した加藤忠広は、幼少のために家老達の合議によって藩政が執行される。藩主外戚として権力を得た2代目玉目丹波であったが、やがて重臣間の権力抗争から藩を二つに割っての「馬方牛方騒動」が勃発する。馬方である加藤右馬允派は、牛方である加藤美作と2代目玉目丹波らが、大坂の陣で豊臣方に内通したと訴え、元和4年(1618年)に2代将軍・徳川秀忠の裁定するところとなり、丹波ら牛方は申し開きをすることができず粛清される。2代目玉目丹波は会津に配流されてその地で果てた。
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