黒丸城をめぐる戦い
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『太平記』によると、新田義貞らは延元3年/建武5年(1338年)5月から黒丸城と足羽七城に大規模な攻撃を開始した。5月2日の戦いでは撃退され、21日にも準備がなされたが、後醍醐天皇により義貞を京都へ呼び戻そうとする動きがあったため中断した。 そして、閏7月2日には30000の兵力で再び攻勢をかけた。しかし藤島城攻略に苦戦する自軍を督戦するため50騎の手勢で藤島城へ向かった義貞は、小黒丸城から出撃した斯波方の軍勢300と鉢合わせしてしまい、あえなく戦死する(藤島の戦い)。 その後の新田勢は弟の脇屋義助が中心となって尚も斯波高経と対峙し、延元4年/暦応2年(1339年)7月に黒丸城を攻略して一時は高経を加賀国(石川県)に撤退させた。しかしその後奪還され義助は美濃国(岐阜県)に落ち、暦応4年/興国2年(1341年)までには越前全域は斯波高経が掌握することとなった。 現在は水田・宅地化しており、地表上に遺構は見られないが、石碑が建てられている。また埋蔵文化財包蔵地としては「黒丸遺跡」として登載されているが、城跡という種別では記載されていない。
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黒丸城をめぐる戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/13 14:39 UTC 版)
『太平記』によると、越前国府を拠点とした新田義貞らは延元3年/建武5年(1338年)5月に黒丸城とその支城群足羽七城(小黒丸城をこれに含める考えもある。)に大規模な攻撃を開始した。5月2日の戦いでは撃退され、21日にも準備がなされたが、後醍醐天皇により義貞を京都へ呼び戻そうとする動きがあったため中断した。 閏7月2日に義貞は30000の兵力で再び攻勢をかけた。しかし藤島城攻略に苦戦する自軍を督戦するため50騎の手勢で藤島城へ向かった義貞は、小黒丸城から出撃した斯波方の軍勢300と鉢合わせしてしまい、あえなく戦死する(藤島の戦い)。 新田勢は弟の脇屋義助が中心となって尚も斯波高経と対峙し、延元4年/暦応2年(1339年)7月に黒丸城を攻略して一時は高経を加賀に撤退させた。しかしその後奪還され義助は美濃に落ち、暦応4年/興国2年(1341年)までには越前全域は斯波高経が掌握することとなった。 その後の大黒丸城は、朝倉氏が一乗谷に拠点を移すまで同氏の拠点となったという。現在は堀と土塁の一部が残る。
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