黒丸城をめぐる戦いとは? わかりやすく解説

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黒丸城をめぐる戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 00:23 UTC 版)

小黒丸城」の記事における「黒丸城をめぐる戦い」の解説

『太平記』によると、新田義貞らは延元3年/建武5年1338年5月から黒丸城足羽七城大規模な攻撃開始した5月2日戦いで撃退され21日にも準備なされたが、後醍醐天皇により義貞を京都呼び戻そうとする動きがあったため中断した。 そして、閏7月2日には30000兵力で再び攻勢をかけた。しかし藤島城攻略苦戦する自軍督戦するため50の手勢で藤島城向かった義貞は、小黒丸城から出撃した斯波方の軍勢300鉢合わせしてしまい、あえなく戦死する藤島の戦い)。 その後新田勢は弟の脇屋義助中心となって尚も斯波高経対峙し、延元4年/暦応2年1339年7月黒丸城攻略し一時は高経を加賀国石川県)に撤退させた。しかしその後奪還され義助美濃国岐阜県)に落ち暦応4年/興国2年1341年)までには越前全域斯波高経掌握することとなった。 現在は水田宅地化しており、地表上に遺構見られないが、石碑建てられている。また埋蔵文化財包蔵地としては「黒丸遺跡」として登載されているが、城跡という種別では記載されていない

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黒丸城をめぐる戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/13 14:39 UTC 版)

大黒丸城」の記事における「黒丸城をめぐる戦い」の解説

『太平記』によると、越前国府を拠点とした新田義貞らは延元3年/建武5年1338年5月黒丸城とその支城足羽七城小黒丸城をこれに含め考えもある。)に大規模な攻撃開始した5月2日戦いで撃退され21日にも準備なされたが、後醍醐天皇により義貞を京都呼び戻そうとする動きがあったため中断した。 閏7月2日に義貞は30000兵力で再び攻勢をかけた。しかし藤島城攻略苦戦する自軍督戦するため50の手勢で藤島城向かった義貞は、小黒丸城から出撃した斯波方の軍勢300鉢合わせしてしまい、あえなく戦死する藤島の戦い)。 新田勢は弟の脇屋義助中心となって尚も斯波高経対峙し、延元4年/暦応2年1339年7月黒丸城攻略し一時は高経を加賀撤退させた。しかしその後奪還され義助美濃落ち暦応4年/興国2年1341年)までには越前全域斯波高経掌握することとなったその後大黒丸城は、朝倉氏一乗谷拠点を移すまで同氏拠点となったという。現在は堀と土塁一部が残る。

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