鳥羽・伏見の戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 17:23 UTC 版)
鳥羽・伏見の戦いで敗北した桑名藩では慶応4年(1868年)1月6日の夜に藩主松平定敬が徳川慶喜、松平容保とともに開陽丸で大阪を退去し、12日に江戸に到着した。 藩主不在の桑名本藩では激論の末に藩論を恭順に決し、万之助(前藩主の長子、藩主定敬の養子)を立てて新政府へ嘆願書を提出し、桑名城は1月28日に開城し、万之助は四日市の法泉寺へ預けられた。江戸でも慶喜が水戸へ引退すると、定敬も桑名藩の柏崎陣屋へ退隠して恭順する決意を固め、品川よりプロイセン船「コリア号」へ乗船して新潟に上陸し、藩士220人と共に北陸道を南下して3月末日には柏崎へ到着した。定敬は劒野山御殿楼に入ることを憚って大久保の勝願寺へ謹慎した。家臣たちも4日に柏崎へ到着した吉村権左衛門宣範や服部半蔵正義、沢采女、政事奉行・久徳小兵衛、御目付・岡本藤馬の20数人も謝罪恭順論により勝願寺・極楽寺・西光寺などで共に謹慎した。しかし、新政府では定敬を罪状2等に区分して許さず、会津藩の恭順も受け入れられなかったことから主戦強硬派が主導権を握ることになった。 4月19日の宇都宮城の戦いには桑名脱藩藩士が参加しており、その一部の約80人が閏4月4日に会津に到着していた。
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