馬事公苑時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:38 UTC 版)
騎手課程第15期生として入所後は、永祥に加え、岡部幸雄、柴田政人、伊藤正徳らと同期生となった。後に岡部、柴田はそれぞれリーディングジョッキーを獲得、伊藤は通算300勝に満たない成績ながら日本ダービー、天皇賞(秋)といった大競走を制し、15期生は特に「馬事公苑花の15期生」と称されるようになる。教官のひとりであった木村義衛は、「騎手志望の少年は、騎手として達者型と上手型の二通りがあるようです。達者型は運動神経が発達していて、先天的に騎手向き。上手型は努力で上手になる型と言えます。そのどちらでもなかった子供は、私の知る範囲ではプロになっていないし、なれません。岡部と福永は達者型というのか、巧かった。柴田はどちらかと言えば上手型でした」と語っている。 2年次の1965年に厩舎の実地研修が始まる際、馬事公苑を訪れた栗田勝が洋一の才能に目を付け、兄の甲を通じ、栗田が所属する京都・武田文吾厩舎に入門するよう働きかけた。しかし甲の記憶によると、栗田は洋一を見ていないともいう。これを受けて洋一の研修は武田厩舎で行われたが、研修期間中は栗田が騎乗するダイコーターと、その弟弟子の山本正司が騎乗するキーストンが日本ダービー出走を間近に控えていた最中であり、厩舎全体に充満していた緊張感は洋一に強い印象を残した。研修期間修了後に騎手免許試験に臨んだが、この年は落第。武田厩舎での1年間の浪人生活を経て、1966年に再受験して合格し、武田厩舎所属騎手としてデビューを迎えた。武田厩舎は当時関西で最大の名門厩舎であり、伊藤正徳は、ダービージョッキーの伊藤正四郎を父に持つ2世騎手であり、関東の名門・尾形藤吉厩舎に入った自分と洋一が最も恵まれたスタートだったと述べている。
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