香月恕経とは? わかりやすく解説

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香月恕経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/29 13:35 UTC 版)

香月 恕経(かつき じょけい[1] / ゆきつね[2]1842年7月21日(天保13年6月14日[1])- 1894年明治27年)5月18日[1])は、幕末医師、明治期の政治家教育者衆議院議員玄洋社社員[3]。幼名・恕吉郎、字・子貫[4]。号・晦処、晦洞[4]

経歴

筑前国夜須郡下浦村(現福岡県朝倉市下浦)で、医師・香月春庵の長男として生まれる[1][4][5]。佐野東庵(甘木高原町)の私塾梅西舎で漢籍を、医師・深水玄門(熊本)に漢方内科医術を、玉井養純(筑後国生葉郡)に漢学・医術をそれぞれ師事した[4]文久2年(1862年)父の死去により家督を相続し医業を開業し、幕末には国事に奔走した[4]

明治2年3月13日1869年4月24日)秋月藩に同藩の情報を久留米藩に提供したとして捕らえられたが、同月17日に釈放された[1][4]。同年12月、秋月藩の下士に取り立てられ藩校稽古館副訓導に就任し、さらに同訓導、郡村教導役兼郡監察、零落村見ヶ締役および新町開拓係を務めた[1][4][5]

1873年筑前竹槍一揆三潴県に投獄され、1877年秋月の乱でも獄に繋がれた[1][4]1879年、民権政社集志社を設立して社長となり、筑前共愛会夜須郡部長も務めた[1][4][5]1880年国会期成同盟幹事に当選し自由民権運動に加わる[1][4][5]1881年、甘木中学校長に就任し、そのかたわら雖無(すいむ)学舎を開設した[1][4]1884年、甘木中学校長を辞任して玄洋社で教育を担当した[1][4]1887年福陵新報が創刊されると幹事に就任した[1][4]

1890年7月、第1回衆議院議員総選挙に福岡県第二区から出馬して当選[2]第2回総選挙でも再選され、衆議院議員を二期務め[2]条約改正反対を主張し活動した[1][4]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『福岡県百科事典』上巻、363-364頁。
  2. ^ a b c 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』165頁。
  3. ^ 『玄洋社・封印された実像』玄洋社社員名簿31頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『三百藩家臣人名事典』第7巻、14-15頁。
  5. ^ a b c d 『福岡県先賢人名辞典』18頁。

参考文献

  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『三百藩家臣人名事典』第7巻、新人物往来社、1989年。
  • 『福岡県百科事典』上巻、西日本新聞社、1982年。
  • 三松荘一編『福岡県先賢人名辞典』葦書房、1986年(文照堂書店、1933年発行の復刻)。
  • 石瀧豊美著『玄洋社 封印された実像』海鳥社、2010年、ISBN978-87415-787-9



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