雪明りの路
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『雪明りの路』(ゆきあかりのみち)は、伊藤整の詩集。および伊藤の詩に多田武彦が付曲した合唱組曲。男声合唱版が先に作曲され、後に混声合唱にも編曲された。
詩集
1926年(大正15年)12月、百田宗治の主宰する椎の木社から自費出版の形で発行された。伊藤にとっての処女詩集である。
伊藤は旧制小樽中学校の英語教師を続けながら詩作に没頭する。しかし上京を志し1926年3月に東京商科大学を受験するものの失敗し、詩集の出版を構想する。「詩集を出すことなど考へもしなかつた私も、自分の為のこの小さな記念碑をたてる事になつた。」「どうしたら、何時になつたら自分自身を捉へれるのかと、それのみの為に苦しんできた。そして自分を信じることも無かつたが、どんな場合も詩をあきらめる事だけは出来なかつた。」と序文に記している。
詩集の構成としては、詩の配列が春から冬にかけての季節の推移を現していて、これが四巡する。「作品の配列は主として制作の年代によつたので、類同その他のことを少し考慮したに過ぎない。」と序文で述べていることから、最初の詩から4年もの月日の流れが詩集に収められていると読み取ることができる。
伊藤の詩は、おおまかに3種類に分けられる[1]。「此の詩集の大部分を色づけてゐるのは北海道の自然である」と序文に記すように1.が強調されるが、1. - 3.は少しずつ入り交じり、特に2.には伊藤自身の女性観や恋愛体験が現れている。
合唱組曲
関西学院グリークラブの委嘱により男声合唱組曲として作曲、1960年(昭和35年)1月22日の同団第28回リサイタルにおいて初演された。関学グリーはこの前年、多田に『中勘助の詩から』を委嘱していて、2年連続の委嘱となった。関学グリーは東京公演に伊藤を招待し、演奏を聴いた伊藤は「もし私のあのやうな詩が音楽と協力できるならば、私は詩といふものを、それまでと違ったものとして考えることができるのではないか、と思ひます。」と礼状にしたためている[2]。混声版は加藤磐郎の編曲によるものがある。
伊藤の詩集から6編の詩を選び作曲した。伊藤の詩はこれまで多田が作曲してきた詩とは異なる自由詩であり、多田は「それまでの曲想をがらりと変え、「詩を朗読するつもりで語るように歌う」方式や、「合唱のもつ多くの声の量感や叫びや呟き」を随所に用いてみた。」[3]として、さまざまな書法を試みていた当時の多田の姿が見て取れる。タイトルが示すように、第1曲以外はすべて夜の情景を歌っている。
曲目
全6曲からなる。全編無伴奏である。
- 春を待つ
- 梅ちゃん
- 月夜を歩く
- 白い障子
- 夜まはり
- 雪夜
- ハ短調。はげしい吹雪と、それがだんだん弱まっていつのまにか止んだあとには、案外明るくて、静かで、あお白い雪明りを歌っていき、組曲を明るく終わる[3]。この詩は状況としては「吹雪の街を」(『吹雪の街を』第6曲)と双方向を為す。別れてしまった女がなおも伊藤に心を残し、静かな青い雪明りの中、伊藤の住む家の窓辺をひそかに訪ねてくれはしないか、という願望的な夢を描いている[10]。雪を素材にしながら「白い」とは言わない。「青い雪明り」である。青は伊藤にとって精神的な安らぎの色、理性ある愛の色なのだろう。青の境地があることを知っていたから、現実の犯罪的な倒錯に陥らなかったと思われる。だが、その青の世界の女性が空想裏にしか現れないことこそが、青年時代の伊藤にとっての不幸であった[11]。
雪明りの路・第二
北海道男声合唱祭実行委員会の委嘱により、多田は同じ『雪明りの路』の中から別の5編を選び、2001年(平成13年)から2003年(平成15年)にかけて作曲、男声合唱組曲としている。2004年(平成16年)6月19日、第4回北海道男声合唱祭における合同演奏にて、長内勲の指揮で初演された。
- 野の風
- ホ短調。
- 故郷に目ざめる
- ホ短調。
- 山に来た雪
- ト長調。もともとは多田の組曲『山の印象』の第3曲であったが、本組曲の成立に際し移された(『山の印象』はこれに伴い第3曲を伊藤の「遠き山見ゆ」に差し替える改訂を行っている)。
- 果樹園の夜
- ホ短調。
- 雪あかりの人
- ト長調。「雪あかりの人」は伊藤を「いさめて行く」。「雪夜」のヴァリエーションというべき詩。
楽譜
男声版は音楽之友社が『多田武彦 男声合唱曲集(2)』ISBN 978-4-276-90839-0 に収めている。『第二』はメロス楽譜(メロスの廃業後はパナムジカ)が出版している。混声版は未出版。
脚注
参考文献
- 深沢眞二著『なまずの孫 1ぴきめ』メロス音楽出版、1996年1月25日発行
関連項目
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