陽秀院とは? わかりやすく解説

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陽秀院

読み方:ヨウシュウイン(youshuuin)

宗派 曹洞宗

所在 愛知県名古屋市中区

本尊 十一面観世音菩薩

寺院名辞典では1989年7月時点の情報を掲載しています。

陽秀院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/16 14:57 UTC 版)

陽秀院

紙張地蔵が鎮座する地蔵堂
所在地 愛知県名古屋市中区大須2丁目15-7
位置 北緯35度09分37.3秒 東経136度54分05.5秒 / 北緯35.160361度 東経136.901528度 / 35.160361; 136.901528座標: 北緯35度09分37.3秒 東経136度54分05.5秒 / 北緯35.160361度 東経136.901528度 / 35.160361; 136.901528
山号 隣松山
宗派 曹洞宗
本尊 十一面観世音菩薩
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陽秀院(ようしゅういん)は、愛知県名古屋市中区大須2丁目15-7にある曹洞宗寺院。山号は隣松山[1]。本尊は木造十一面観世音菩薩坐像[1]

境内にある紙張地蔵(かみはりじぞう、紙張地蔵尊)で知られている。もとは大光院塔頭であり、現在は大光院の末寺[1][2]。毎月28日は陽秀院と大光院の縁日であり、陽秀院には多くの参拝者が訪れる[3]。大須秋葉殿という別名がある。平和公園には陽秀院墓地がある。

歴史

大光院
創建
寛永年間(1624年-1644年)、大光院2世の大菴護奕の弟子である葉室嶺奕大和尚によって開基された[1]。寛永11年(1634年)、娘の腫瘍に悩む檀家が夢でお告げを受け、陽秀院の地蔵に紙を貼って祈願すると治ったという[3]
近代
藩政期には平僧地(曹洞宗における小院)だったが、慶応4年(1868年)には大光院30世の大薩祖梁によって法地(普通寺院)に昇格した[1]明治時代以後の住所は門前町2丁目[1]1915年大正4年)から1916年(大正5年)ごろの境内には、本堂、庫裏、地蔵堂、総門などがあった[1]
現代
1945年昭和20年)3月19日の名古屋大空襲では大須の多くの寺院も焼失したが、陽秀院の山門と地蔵は焼失を免れた[3]。教育学者の芥子川律治中京女子大学教授)は陽秀院の紙張地蔵尊に基づいた物語を執筆し、1984年(昭和59年)に名古屋市が発行した『続・名古屋の伝説』に収録された[3]

境内

  • 本堂
  • 山門
  • 紙張地蔵 - 地蔵堂に鎮座。
  • 千射地蔵 - 地蔵堂に鎮座。
  • 加藤元秀府君之碑 - 尾張藩藩医だった加藤元秀の顕彰碑。
  • 阿武松緑之助碑 - 大相撲力士阿武松緑之助の顕彰碑。
  • 寺号標 - 寄進者は中村遊廓の一徳の楼主である森鉄太郎。

脚注

  1. ^ a b c d e f g 『名古屋市史 社寺編』名古屋市役所、1915年、p.625
  2. ^ 『名古屋市史 社寺編』名古屋市役所、1915年、pp.620-624
  3. ^ a b c d 「あいちの民話を訪ねて(27)紙張り地蔵さん(名古屋市中区)」『中日新聞』2021年2月28日

参考文献

  • 『名古屋市史 社寺編』名古屋市役所、1915年

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