陽秀院
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陽秀院 | |
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![]() 紙張地蔵が鎮座する地蔵堂 |
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所在地 | 愛知県名古屋市中区大須2丁目15-7 |
位置 | 北緯35度09分37.3秒 東経136度54分05.5秒 / 北緯35.160361度 東経136.901528度座標: 北緯35度09分37.3秒 東経136度54分05.5秒 / 北緯35.160361度 東経136.901528度 |
山号 | 隣松山 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 十一面観世音菩薩 |
陽秀院(ようしゅういん)は、愛知県名古屋市中区大須2丁目15-7にある曹洞宗の寺院。山号は隣松山[1]。本尊は木造十一面観世音菩薩坐像[1]。
境内にある紙張地蔵(かみはりじぞう、紙張地蔵尊)で知られている。もとは大光院の塔頭であり、現在は大光院の末寺[1][2]。毎月28日は陽秀院と大光院の縁日であり、陽秀院には多くの参拝者が訪れる[3]。大須秋葉殿という別名がある。平和公園には陽秀院墓地がある。
歴史

- 創建
- 寛永年間(1624年-1644年)、大光院2世の大菴護奕の弟子である葉室嶺奕大和尚によって開基された[1]。寛永11年(1634年)、娘の腫瘍に悩む檀家が夢でお告げを受け、陽秀院の地蔵に紙を貼って祈願すると治ったという[3]。
- 近代
- 藩政期には平僧地(曹洞宗における小院)だったが、慶応4年(1868年)には大光院30世の大薩祖梁によって法地(普通寺院)に昇格した[1]。明治時代以後の住所は門前町2丁目[1]。1915年(大正4年)から1916年(大正5年)ごろの境内には、本堂、庫裏、地蔵堂、総門などがあった[1]。
- 現代
- 1945年(昭和20年)3月19日の名古屋大空襲では大須の多くの寺院も焼失したが、陽秀院の山門と地蔵は焼失を免れた[3]。教育学者の芥子川律治(中京女子大学教授)は陽秀院の紙張地蔵尊に基づいた物語を執筆し、1984年(昭和59年)に名古屋市が発行した『続・名古屋の伝説』に収録された[3]。
境内
- 本堂
- 山門
- 紙張地蔵 - 地蔵堂に鎮座。
- 千射地蔵 - 地蔵堂に鎮座。
- 加藤元秀府君之碑 - 尾張藩の藩医だった加藤元秀の顕彰碑。
- 阿武松緑之助碑 - 大相撲力士の阿武松緑之助の顕彰碑。
- 寺号標 - 寄進者は中村遊廓の一徳の楼主である森鉄太郎。
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山門
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加藤元秀府君之碑
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阿武松緑之助碑
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寺号標
脚注
参考文献
- 『名古屋市史 社寺編』名古屋市役所、1915年
外部リンク
- 陽秀院 曹洞宗ナビ
- 陽秀院のページへのリンク