陶晴賢の出陣
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天文23年(1554年)3月1日、陶晴賢は大内義長を奉じて出陣。大内軍には、江良房栄・内藤隆世・白井賢胤・乃美賢勝・勝間田盛治・脇兼親・伊香賀家朋・久芳賢重・宮川房長・三浦房清・町野隆治などが従軍したとされる。 義長は渡川城に本陣を置き、晴賢らは先鋒として元山城まで兵を進めた。 3月2日には、三本松城の支城である賀年城を攻める。賀年城には、城主の波多野滋信・秀信親子と援軍の吉見範弘・下瀬頼定が籠もり、勝山から少し離れた場所には吉賀頼貞親子が手勢を率いて陣取った。大内軍の先鋒である晴賢は、弘中・三浦・町野勢を含む大軍で城を包囲した。籠城側は要害堅固な地形を生かして善戦したと伝わるが、家臣の田中次郎兵衛が陶軍に内応したため翌日には落城。波多野親子、吉見範弘らが討ち死にし、下瀬や吉賀は敗走した。 3月16日、大内軍は益田藤兼の軍勢と合流。また、義長の大内軍本陣も元山城に移った。さらに吉見方の諸城(鹿ヶ嶽城・鰐坊山城・平山城・櫛崎城など)の攻略に取りかかっている。
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