陳耀祖とは? わかりやすく解説

陳耀祖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/25 22:07 UTC 版)

陳 耀祖
Chen Yaozu
生年月日 1892年
出生地 広東省広州府新会県
(現:江門市新会区
没年月日 1944年4月4日(53歳没)
死没地 中華民国 広東省広州市
所属政党 中国国民党
中国国民党 (汪兆銘政権)
中華民国
広東省政府主席
在任期間 1940年11月8日 - 1943年1月20日
中華民国
広東省長
在任期間 1943年1月20日 - 1944年4月4日
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陳 耀祖
職業: 政治家
各種表記
繁体字 陳 耀祖
簡体字 陈 耀祖
拼音 Chén Yàozǔ
ラテン字 Ch'en Yao-tzu
和名表記: ちん ようそ
発音転記: チェン ヤオズー
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陳 耀祖(ちん ようそ、1892年光緒18年〉 - 1944年民国33年〉4月4日)は、中華民国の政治家。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。汪兆銘夫人・陳璧君の実弟である。

事績

1926年(民国15年)11月、広東省政務委員会委員となる。翌年3月、代理建設庁庁長に任ぜられた。11月、広州市工務局局長に異動している。1932年(民国21年)1月、国民政府の鉄道部常務次長代理となる。3月、同部財務司司長となって、1936年(民国25年)4月までつとめた。翌年6月、広東省政府委員となっている。

1939年(民国28年)8月、陳耀祖は中国国民党第6期(汪派)で執行委員に選出された[1]。翌月の9月には広東省党部主任委員を兼任している。1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)が成立すると、陳耀祖は中央政治委員会指定委員に選出され[2][注 1]、以後4期までつとめた。4月、広東省政府主席代理(陳公博の代理)兼建設庁庁長兼保安司令に任ぜられた。11月、正式に広東省政府主席となり、その翌月には中央政治委員会副主任委員となった。この陳耀祖の人事には、陳璧君の後押しがあったとされる[3]

1942年(民国31年)6月、陳耀祖は広州市市長も兼ね、広東省の全権を一手に掌握した。翌年1月、省政府主席から省長へと改組される。同年中にフランス専管租界接収委員、新国民運動促進委員会広東省主任委員も務めている。

1944年(民国33年)4月4日、陳耀祖は広州で暗殺された。享年53。

脚注

注釈

  1. ^ 中央政治委員会の人事は、発令前の同月24日に決定・公表された。

出典

  1. ^ 『大陸年鑑 昭和十八年』大陸新報社、400頁。
  2. ^ 『外交時報』94巻2号通号849号、昭和15年4月15日、外交時報社、185-186頁。
  3. ^ 劉傑『漢奸裁判』、135頁。

参考文献

  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
陳公博
広東省政府主席
1940年11月 - 1943年1月
次代
(省長に改組)
先代
(省政府主席から改組)
広東省長
1943年1月 - 1944年4月
次代
陳春圃

   





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