陘廷の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 02:46 UTC 版)
晋の公族で、祖父の桓叔(成師)から続く分家の曲沃の出身で、幼少の頃から曲沃の正卿の欒賓(中国語版)(靖侯の孫、欒成(中国語版)(欒共子)の父、欒枝(中国語版)の祖父、欒書の先祖)を傅に付けられるなど、桓叔に目をかけられていた。 父の荘伯の死後、曲沃の第3代当主となった称は、祖父と父の遺志を継いで宗家を乗っ取ろうとし、紀元前709年に起きた翼宗家の陘廷(翼の南)攻略戦の隙を突いて、宗家当主の哀侯と息子の小子侯を立て続けに滅ぼした。 この戦いの際、称は欒賓の子で、古くからの知り合いである欒成(欒共子)と再会し、「私はあなたを曲沃の正卿として、政を任せたい」と降伏を呼びかけた。しかし欒成は「もし私が私利によって人の道を破棄する(=曲沃の正卿になる)ならば、私はどうやって民に教えるのですか。その上、君侯に仕えて二心を持つならば、 君侯は私をどのように用いられるのですか」と厳然と降伏を拒否し、翼の臣として戦死した。称はこれを大いに悲しんだ。
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