闇斎の顕彰計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 19:45 UTC 版)
天明元年(1781年)山崎闇斎百回忌に当たり、宝暦事件以降勢いを失った垂加神道を復興させるため、闇斎旧宅に祠堂・講堂を建設することを計画した。京都で関白九条尚実に闇斎の諡号下賜を求め、江戸で会津藩主や門流等に旧宅購入の資金を募ったが、服部栗斎に諡号は不要と反対されるなどして実現しなかった。10月失意の内に帰郷し、闇斎の忌日11月22日に礒宮で一人百年祭を挙行した。 天明4年(1784年)2月藩から常陸介の名乗りを公認されたが、その請願の日に子に神職を譲って隠居し、赤斎と号した。
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