開発者魂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 08:24 UTC 版)
1934年(昭和9年)の住友伸銅鋼管との資本提携時の住友側の責任者で、戦後大阪金属工業の会長を務めた春日弘によれば、難波工場時代に「工場を見てくれ」という山田晁に案内されたが、工場には他人の表札がかかっていた。普通なら表札付け替えくらいするものだが、山田は「持ち主がだれであろうとオレの工場だ」と平気であった。たいした度胸の男だと感心した、と述べている。山田自身は大阪砲兵工廠での修練が人間像を形づくる基礎工事であった、と語っている。畑違いの化学分野に踏み込んだ飯盒褐色塗料開発は後のフロン開発につながり。これと創業時のベンチャーとも言える飛行機用ラジエーターチューブ製造やその後の注油器国産化で培った機械製作技術の融合が「ミフジレーター」製作から「ダイキンエヤコン」へと発展する原動力となった。
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