錦木塚五郎 (天保)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 錦木塚五郎 (天保)の意味・解説 

錦木塚五郎 (天保)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/11 15:49 UTC 版)

錦木 塚五郎(にしきぎ つかごろう、生年不明 - 1842年8月16日天保13年7月11日〉)は、現在の岩手県花巻市(旧・陸奥国稗貫郡)出身で四賀峰部屋(同郷の四賀峰東吉が運営した部屋)→二所ノ関部屋に所属した力士[1]

本名は八木とのみ伝わっている。身長、体重は不明。

最高位は西小結盛岡藩抱えであった。

来歴

1831年11月初土俵(二段目〈現在の幕下〉)。1835年11月東二段目8枚目に上がり、現在でいう十枚目昇進を果たす。その場所、8勝0敗1預の無敗の好成績で、優勝相当成績を挙げた[1]。その後二段目でもたつくも、1839年3月場所で6勝2敗2休の成績を挙げ、二段目10枚目以内(現在でいう十両)で2度目の優勝相当成績を挙げた[1][2]。翌1839年11月場所で新入幕を果たし、5勝0敗2休2分1預と無敗だった。次の1840年2月場所も西前頭筆頭に上がりながらも、8勝1敗1分(5日目に稲川政右エ門に負けるまでは、入幕以来9連勝だった[3])と好成績を挙げた。だが両場所とも後に横綱に昇進する者に優勝をさらわれた(1839年11月…天津風雲右エ門〈当時、西小結で6勝0敗2休2分。後の第9代横綱・秀の山雷五郎〉、1840年2月…不知火諾右衛門〈当時、西大関で8勝0敗2休。この場所後横綱免許を貰い、第8代横綱となった〉)。次の1840年11月場所後に小結に昇進したが、それまでの快進撃とは裏腹に5割前後の勝率まで落ち込んだ[1]。1842年2月場所後の7月11日に、現役のまま死去。生年は不明だが、初土俵から逆算すると30~40代だったと見られている。

幕内通算 6場所、26勝10敗11休8分2預1無の成績を残した。優勝相当成績2回(二段目10枚目以内(現在でいう十両)時代の1835年11月,1839年3月場所)。歌川国貞によって錦絵が現存しており、江戸東京博物館に収蔵されている[4]。十両時代は幸運に恵まれたが、幕内では一転して不運になった土俵人生だった。

改名歴は1回ある:三ツ鱗 → 錦木[1] 余談だが、兄がおり同じ三ツ鱗の四股名を名乗っていた事がある(但し、幕下止まりのまま引退)。

出典

  1. ^ a b c d e http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3325&l=j
  2. ^ この場所では東二段目5枚目の小柳常吉が6勝3敗1分、西二段目8枚目の十文字が6勝1敗2預1休の成績を挙げているが、番付上位により錦木の優勝とされた。
  3. ^ 天保11年春場所大相撲星取表サイト
  4. ^ 江戸東京博物館:収蔵品検索 - 東京都歴史文化財団※資料番号94200395が錦木の錦絵である。

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  錦木塚五郎 (天保)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「錦木塚五郎 (天保)」の関連用語

錦木塚五郎 (天保)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



錦木塚五郎 (天保)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの錦木塚五郎 (天保) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS