金用雨とは? わかりやすく解説

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金用雨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/30 07:44 UTC 版)

金 用雨(キム・ヨンウ、김용우、1912年4月29日 - 1985年9月13日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国教員公務員政治家外交官。第6代国防部長官、第2代韓国国会議員、第11代大韓赤十字社総裁などを歴任した。

本貫旧安東金氏[1]三儂(サムノン、삼농)、児名は在用[2]

経歴

ソウル市西大門区出身。1930年培材高等普通学校卒、1934年に延禧専門学校(現・延世大学校)数物科文科修了。南カリフォルニア大学卒、1939年同大学院数物科修了。解放前は淑明女子大培材大で教師を務めた。光復後は1945年にソウル特別市長顧問、1946年にソウル特別市厚生局長を経て、中央技術教育委員会事務総長、中央管財庁運営署長、大韓住宅営団(現・韓国土地住宅公社)理事長を歴任し、1950年の第2代総選挙で西大門甲選挙区から無所属で出馬し、国会議員に当選し、国会保健社会委員長を務めた。1954年に第3代民議院事務総長、1955年に国防部次官、1956年に第6代国防部長官、1957年に駐イギリス大使、1958年に国際海洋法会議韓国首席代表、1959年に韓国反共青年団団長、1962年に国際テニスクラブ会長、5・16奨学会理事、ソウル中央キリスト教青年会連盟総務、韓国文化放送株式会社社長、国連総会韓国代表、1963年に民主共和党中央常務委員・政策委員会議長、1965年にソウルカントリークラブ理事、1968年に韓国ボーイスカウト連盟事務総長、1971年に大韓体育会会長、大韓オリンピック委員会委員長、大韓赤十字社副総裁、1972年に大韓赤十字社総裁、そのほか自由党組織部長を務めた。国会議員在任中は労働組合法、労働紛争法、勤労基準法を制定した[2][3][4]

エピソード

1962年12月31日に逓信部から民営テレビ放送の許可を取得したが、資金難により李秉喆に譲渡した。李はその姻戚の具仁会と共に経営し、後の東洋放送となった[5]

脚注

  1. ^ (18)안동 김씨(安東金氏)(구파)-425,264명”. 서울이코노미뉴스 (2014年7月21日). 2025年5月28日閲覧。
  2. ^ a b 권영대, “김용우 (金用雨)” (朝鮮語), 韓国民族文化大百科事典 (韓国学中央研究院), https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0009960 2025年5月27日閲覧。 
  3. ^ 대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2025年5月27日閲覧。
  4. ^ 근현대인물자료 < 한국 근대 사료 DB”. db.history.go.kr. 2025年5月28日閲覧。
  5. ^ [주말ON] 부자 氣받기- 삼성·LG·효성 창업주 이야기 3부 (18) 구인회의 방송 경영” (朝鮮語). 경남신문 (2022年6月23日). 2025年5月30日閲覧。
公職
先代
孫元一
大韓民国国防部長官
第6代:1956.5.26 - 1957.7.6
次代
金貞烈
外交職
先代
李卯黙(公使)
イギリス大韓民国大使
初代:1957 - 1958
次代
金裕澤



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