遠藤留吉
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遠藤 留吉(えんどう とめきち、1907年〈明治40年〉8月19日 - 1997年〈平成9年〉6月17日)は、大阪市西成区玉出に本店を置く会津屋の創業者。1935年にたこ焼きを開発したことで知られる[1]。
概要
1907年(明治40年)8月、福島県河沼郡会津坂下町に百姓の子として生まれる。家業を継いで百姓になるが、どれだけ熱心に働いても収入が少なく、田畑も自分の物にならないジレンマを感じ、27歳の時に僅か11銭を持って東京へ出奔する。東京では「第二食堂」という店で3年間熱心に働いたことで、店主の紹介で同じ食堂で働いていた女性と結婚。妻の妹が大阪で所帯を持っていたことをきっかけに、大阪へ転居する。大阪では屋台寿司と関東煮を出す屋台を構えるも、昭和恐慌による不景気が尾を引いていたこともあり、振るわなかった。[2]
1933年(昭和8年)、業態をラジオ焼き店に変更[3]するも、子供のおやつとしての立ち位置だったこともあり、販売総量はあまり多くなかった。この際に「明石ではタコを入れた卵焼きがある」と客から聞いたことをきっかけに、遠藤はラジオ焼きへタコを入れた改良品を思いつく。1935年(昭和10年)、業態を変えて新たにたこ焼き屋として再出店。これも当初はあまり売れなかったが、地道に改良を重ねてヒットへ繋げた。第二次世界大戦による疎開を経て、1948年(昭和23年)に大阪へ戻った後、1949年(昭和24年)に西成区天下茶屋へ店を構える。 1965年(昭和40年)、息子である遠藤吉蔵(1941年生)が会津屋2代目代表に就任し、後進に道を譲った。ただ、衣の仕込みだけは禅譲後も毎日続けていたという。[4] 1997年(平成9年)、89歳で死去。
関連項目
脚注
外部リンク
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