逢妻村発足前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 10:19 UTC 版)
「逢妻村 (愛知県碧海郡)」の記事における「逢妻村発足前」の解説
高津波村 かつては浸食谷が潟を形成していたことから高津潟と称していたが、衣浦湾(三河湾)の波が打ち寄せることから高津波となった。江戸時代には刈谷藩領だった。刈谷城にも近いことから、宝永2年(1705年)には家中屋敷外の田畑が約100石あった。近世のはじめは池鯉鮒宿の助郷村だったが、延享3年(1746年)には助郷役を免除されて刈谷城の城下役となった。1876年(明治9年)の戸数は91、人口は402。 熊村 江戸時代には刈谷藩領だった。集落の中心は台地上にあったが、逢妻川沿いの低地の干拓を進め、さらには東側の荒野も切り開いていった。刈谷城にも近いことから、宝永2年(1705年)には家中屋敷外の田畑が約100石あり、台地西部には侍屋敷もあった。近世のはじめは池鯉鮒宿の助郷村だったが、延享3年(1746年)には助郷役を免除されて刈谷城の城下役となった。1868年(明治初年)には江戸から70軒分の藩士が熊村にやってきたが、次第にちりじりになっていった。1876年(明治9年)の戸数は255、人口は965。
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