逢妻村 (愛知県碧海郡)とは? わかりやすく解説

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逢妻村 (愛知県碧海郡)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/27 16:25 UTC 版)

あいづまむら
逢妻村
廃止日 1906年5月1日
廃止理由 合併
現在の自治体 刈谷市
廃止時点のデータ
日本
地方 中部地方東海地方
都道府県 愛知県
碧海郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 1,276
(1891年)
逢妻村役場
所在地 愛知県碧海郡逢妻村
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逢妻村(あいづまむら)は、かつて愛知県碧海郡にあったである。現在の刈谷市の一部(逢妻町・高津波町・熊町など)に該当する。

地理

碧海台地の西端、逢妻川の下流西岸(左岸)に位置する[1]。西部を流れる逢妻川が名称の由来である[1]

歴史

逢妻村発足前

高津波村

かつては浸食谷が潟を形成していたことから高津潟と称していたが、衣浦湾三河湾)の波が打ち寄せることから高津波となった[1]江戸時代には刈谷藩領だった[1]刈谷城にも近いことから、宝永2年(1705年)には家中屋敷外の田畑が約100石あった[1]。近世のはじめは池鯉鮒宿助郷村だったが、延享3年(1746年)には助郷役を免除されて刈谷城の城下役となった[1]。1876年(明治9年)の戸数は91、人口は402[1]

熊村

江戸時代には刈谷藩領だった[1]。集落の中心は台地上にあったが、逢妻川沿いの低地の干拓を進め、さらには東側の荒野も切り開いていった[1]刈谷城にも近いことから、宝永2年(1705年)には家中屋敷外の田畑が約100石あり、台地西部には侍屋敷もあった[1]。近世のはじめは池鯉鮒宿助郷村だったが、延享3年(1746年)には助郷役を免除されて刈谷城の城下役となった[1]。1868年(明治初年)には江戸から70軒分の藩士が熊村にやってきたが、次第にちりぢりになっていった[1]。1876年(明治9年)の戸数は255、人口は965[1]

逢妻村発足後

1889年(明治22年)10月1日には町村制により、高津波村と熊村が合併して逢妻村が発足した[1]。1891年(明治24年)の戸数は253、人口は1,276[1]

年表

  • 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制により、高津波村と熊村が合併して逢妻村が発足。
  • 1906年(明治39年)5月1日 - 刈谷町重原村小山村元刈谷村と合併して刈谷町が発足。逢妻村は廃止。大字高津波と大字熊は継承された[1]

名所・旧跡

出身者

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』
  2. ^ a b c d 刈谷西部の縄文遺跡 刈谷市
  3. ^ a b 市杵島神社 市原稲荷神社
  4. ^ a b 熊野神社 市原稲荷神社
  5. ^ 石碑「竹香田部井君之碑」
  6. ^ 石碑「河目正平先生之碑」
  7. ^ 刈谷町誌編纂会『刈谷町誌』刈谷町、1932年、p.375

参考文献

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 23 愛知県』角川書店、1989年

関連項目




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