趙嬰斉の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 09:23 UTC 版)
紀元前122年、病に倒れた趙眜は、武帝に対し漢で宿衛を担当していた息子の趙嬰斉の帰国を要請した。同年趙眜が死去すると趙嬰斉は王位を継承した。趙嬰斉は入朝以前に、南越で南越人の妻を娶り長子・趙越をもうけていた。その一方長安でも邯鄲樛家の女子を娶り息子の趙興をもうけていた。趙嬰斉が南越の王位を継承した後、武帝に対し樛氏の立后と、趙興の立太子を上奏した。武帝はこの上奏を受け入れたが、この立太子劇は将来の南越国での争乱の禍根となった。趙嬰斉は暴君であり、人を殺したと伝えられる。武帝は南越国にしばしば使者を派遣し、趙嬰斉に対し長安への入朝を求めたが、武帝により長安に留め置かれる事を恐れ、病気を理由にこれを拒み、代わりに末子の趙次公を入朝させ宿衛に当らせた。
※この「趙嬰斉の治世」の解説は、「南越国」の解説の一部です。
「趙嬰斉の治世」を含む「南越国」の記事については、「南越国」の概要を参照ください。
- 趙嬰斉の治世のページへのリンク