越後中将お預かり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 08:18 UTC 版)
天和元年(1681年)6月26日、越後騒動で改易となった元・越後高田藩主の松平光長が配流処分となり、松山藩が預かることとなる。8月1日松山に到着した光長を、松山城三ノ丸に蟄居させる。翌年4月、北の丸の蟄居屋敷に移転させる。この光長の預かりは、光長が江戸に移送される貞享元年(1683年)末まで続いた。同年11月1日、光長赦免の幕府からの奉書は、定直を通して光長が受領し、同月25日に光長は松山を発して江戸へ向かった。光長は合力米3万俵を与えられ旗本となる(宣富の代に津山藩10万石の準国主大名として復帰)。
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