賀茂真淵
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賀茂 真淵(かもの まぶち、元禄10年3月4日〈1697年4月24日〉- 明和6年10月30日〈1769年11月27日〉)は、江戸時代中期の国学者、歌人。通称三四。真淵は出生地の敷智(ふち)郡にちなんだ雅号で、淵満(ふちまろ)とも称した[3]。
注釈
- ^ 「岡部家は代々加茂神社の禰宜(ねぎ)となり、『賀茂県主(あがたぬし)』と呼ばれていた」(三枝康高 1962, p. 43)。「真淵の実父の政信は、分家筋」(三枝康高 1962, p. 60)。「農事をもっぱらにした実父政信」(三枝康高 1962, p. 74)。「政信(中略)家の生計は、もっぱら農事によってたてられていた」(三枝康高 1962, p. 63)。「賀茂真淵県主(あがたぬし)は百姓の子なり」(小山田与清 『擁書漫筆』、三枝康高 1962, p. 17より孫引き)。
- ^ 「宝永四年は真淵大人(うし)十一歳になれり、(中略)手習ひ始めなるべし」(杉浦比隅満 『古学始祖略年譜』、三枝康高 1962, pp. 67–68より孫引き。資料に関しては同書309頁参照)。
- ^ 「岡部政長の養子となる」(三枝康高 1962, p. 312)。
- ^ 「梅谷脇本陣がすなわち真淵の養家にあたり、」(三枝康高 1962, p. 120)。「脇本陣の若主人になったことが真淵にとって」(三枝康高 1962, p. 122)
- ^ 「浜松宿の脇本陣、梅谷方良の養子になった」(三枝康高 1962, p. 117)
- ^ 「いくつかの説(中略)享保十八年、三十七歳のとき京へのぼり、春満を師とした(中略)これにたいして(中略)真淵自らも『学びのあげつろひ』において、「三十に余りて京へおりおり行て、荷田うしに学びつるも」という。(中略)享保十三年(中略)ならば真淵も三十二歳であり、(中略)上京したとしても不審は無く、(後略)」(三枝康高 1962, pp. 139–140)。「享保十三年(一七二八)に三十二歳で春満に入門してから」(三枝康高 1962, p. 165)。
- ^ 「元文二年(一七三七)(中略)江戸の土をふみ、信名のもとに身を寄せた。」(三枝康高 1962, p. 182)。
- ^ 「師たるべき位置を与えられた」(三枝康高 1962, p. 184)。「古典についての共同研究を、飽かずにおこなってゆく」(三枝康高 1962, p. 187)。
出典
- ^ “賀茂真淵について”. 賀茂真淵記念館. 2021年5月3日閲覧。
- ^ 明治38年11月12日に従三位に追陞(「故賀茂真淵外一名贈位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10110212900 )
- ^ a b c d e f g h i j k l m 井上豊 「賀茂真淵」(日本古典文学大辞典編集委員会 1986, pp. 399–401)
- ^ “国学の四大人(こくがくのしたいじん)の意味”. goo国語辞書. 2020年7月22日閲覧。
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 11頁。
- ^ 日本史用語研究会『必携日本史用語』(四訂版)実教出版(原著2009-2-2)。ISBN 9784407316599。
- ^ 庄田 2006, p. 29(原文は『賀茂翁家集』「序文」(新編国歌大観 第9巻1 所収)。)
- ^ 三枝康高 1962, p. 19.
- ^ 三枝康高 1962, p. 69.
- ^ 三枝康高 1962, p. 100.
- ^ 三枝康高 1962, p. 103.
- ^ 三枝康高 1962, pp. 179–180.
- ^ 三枝康高 1962, p. 224.
- ^ 内田宗一 2016, pp. 42–43.
- ^ 内野吾郎 「油谷倭文子」(日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 1875)
- ^ 内野吾郎 「土岐筑波子」(日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 1322)
- ^ 内野吾郎 「鵜殿余野子」(日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 175)
- ^ 内田宗一 2016, p. 40.
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