蟠龍寺_(岐阜県東白川村)とは? わかりやすく解説

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蟠龍寺 (岐阜県東白川村)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/06 11:43 UTC 版)

蟠龍寺
所在地 岐阜県加茂郡東白川村五加1482
山号 青松山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 聖観世音菩薩
中興 南隣禅松
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蟠龍寺(ばんりゅうじ)は、岐阜県加茂郡東白川村五加にかつて存在した臨済宗妙心寺派の寺院。山号は青松山。

明治3年(1870年苗木藩の廃仏毀釈の前に、自ら終わって廃寺となった。

歴史

創建時期や由緒は不詳であるが、当初は飛騨国益田郡御厩野にあった真言宗大威徳寺の末寺として開創されたと伝わる。

元和元年(1615年)、初代苗木藩主の遠山友政は、苗木城の傍らに菩提寺として雲林寺を開基した。

遠山友政は、その後、領内に雲林寺の末寺を創建したり、従来から存在した他宗派の寺院を臨済宗妙心寺派に改宗して末寺とした。

寛文5年(1665年)、蟠龍寺は改宗されて雲林寺の末寺となった。

檀家は、大沢・久須見・柏本・下野・宮代・中屋・須崎の7集落で200戸ほどあった。

その後の経緯は、古記録が処分されたため不明である。

慶応4年(1868年)、神仏分離令が公布されると苗木藩では廃仏毀釈の風潮が高まって来た。

明治元年(1868年)5月29日、飛騨国益田郡の東泉寺から入寺して十一世となっていた祖恩が示寂したため、

恵那郡姫栗村長増寺から全理が十二世として入寺した。

ある日、村の若者が、いたずらで「穢れの者、これより外に出るべからず」と大書した高札を蟠龍寺の門前に建てた。

全理は勝気な僧であったため「俗人の輩、みだりの聖境に入るべからず」と逆襲したが、あれやこれやで村方から反感が募り、全理が寺を去ったことにより、

明治3年(1870年)9月27日に、苗木藩から廃寺と還俗の申し渡しを受ける前に、既に蟠龍寺は終わっていた。

廃寺となった際の所有地は、宅地は一反歩ほどであったが、寺有田地控高が、およそ20俵。山林も大分あった。建物は縦6間に横13間で土蔵もあった。

本堂は飛騨高山へ売却し、祠堂にあった位牌等は焼却した。什器、諸道具、土地等は、地元の世話方であった、今井虎吉・今井浅平・今井亀吉・小池半兵衛・今井丹右衛門の5人が買受け、土地代の内で15両を蟠龍寺の永代祭祀料として5人で分けて、その残りは檀家であった7集落に分配した。

仏像は、東泉寺へ移されたとも云われている。

大般若経100巻の内の50巻と過去帳8冊は、苗木藩の役人の目を逃れて、柏本村の神職で元安正院こと安江五郎正朝の家へ移した。

明治20年頃、加茂郡野上村の正伝寺の先の住持が有志と共に、蟠龍寺の再興を企図して、縦二間・横三間の小堂を建てたが、暴風によって倒壊し、遂に目的が果たせず終わった。

歴代住持の墓は横倒しにされ、寺の大門前にあった六字名号碑は、倒されて放置されていたが、

大正7年(1918年)に五加鉱山の監督として大阪から出張で来ていた安川憲の発願によって、歴代住持の墓石とともに立て直された。これらの墓石が寺の雰囲気を僅かに漂わせている。

敷地面積は、1,337.4㎡、寺跡は、1,202.6㎡、付属の建物跡は、59.3㎡と、75.5㎡。参道の幅は、3m(平均)、延長は、約50m。

現在は寺境に石積が残っており、建物の跡は水田となっている。

昭和51年(1976年)6月に、東白川村の史跡に指定された。

蟠龍寺過去帳

明治3年(1870年)の廃仏毀釈の際に、村内の檀家宅に隠されて危うく難を逃れた。現在は、その檀家の子孫が保管している。

宝永2年(1705年)から安政4年(1857年)までの152年間にわたり、蟠龍寺の歴代住持が記したものであり、和紙の綴り式の7冊と、和紙折本式1冊で、大沢・久須見・柏本・下野・宮代・中屋・須崎の7集落の檀家の住民が記録されている。

昭和51年(1976年)6月に、東白川村の史跡に指定された。

歴代住持

  • 中興一世  南隣禅松  延宝6年10月12日没
  • ニ世    大胸祖満  宝永2年10月14日没
  • 三世    大秀玄智  正徳2年6月28日没
  • 四世    黙室禅宜  元文3年5月17日没
  • 五世    北巌玄笁  延享4年7月5日没
  • 再中興六世 希嶽祖廉  宝暦13年2月24日没
  • 七世    定嶽祖禅  天明5年7月7日没
  • 八世    大方禅珠  文化2年2月3日没
  • 九世    容堂禅興   文化14年3月25日没
  • 十世    中寶文哲   安政4年10月8日没
  • 十一世   祖恩    明治元年(1868年)5月29日没
  • 十ニ世   全理

参考文献

  • 『新修東白川村誌 通史編』 第五章 教育・文化 第四節 文化 一 文化財 蟠龍寺過去帳 p927 - p928 東白川村誌編纂委員会 1982年
  • 『新修東白川村誌 通史編』 第五章 教育・文化 第四節 文化 一 文化財 蟠龍寺跡 p929 - p930 東白川村誌編纂委員会 1982年
  • 『新修東白川村誌 通史編』 第六章 宗教 第一節 社寺・信仰集団 青松山蟠龍寺 p965 - p966 東白川村誌編纂委員会 1982年
  • 『八百津町史 史料編』 第四編 民俗史料 第一章 藩文書 第七節 苗木藩の廃仏毀釈について 一三 大沢蟠龍寺 p232-p234 八百津町史編纂委員会 昭和47年

脚注




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