蛇の女王エグレ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/27 00:31 UTC 版)

蛇の女王エグレ(「蛇女王エグレ」[1]、「蛇の女王アーグレ」[2]、リトアニア語: Eglė žalčių karalienė)はリトアニアの伝承。
物語の概要
昔、ある老人老婆には12人の息子と3人の娘がいた。三人姉妹が湖[注 1]で沐浴している間に、蛇(ヨーロッパヤマカガシ)[4]がやってきて、エグレという末娘が脱ぎ捨ててあった上着の袖にとぐろを巻き、「服を返してほしければ結婚してくれ」と無理難題をふっかけ、エグレは約束してしまった[5][6][1]。
エグレの両親は、娘を蛇にやるのを心中では渋ったが、蛇たちの結婚行列が大挙して迎えにきたのでしかたなく引き渡して泣いていた[5][7]。異本では両親が替え玉として、ガチョウを用意し[8][9]、あるいはさらにヒツジ[10]、牛、長女[注 2]を袋に入れてわからないように蛇たちに差し出すが[11][12]、止まり木のカッコウ鳥のやつが偽物だとばらしてしまい、ついに激怒した蛇たちが本物を差し出さないと、干ばつと飢饉をもたらし家も焼き払うと脅すので応じたのであった[11][12]。
ところが海辺までつれてこられたエグレを迎えたのは美男子であり、我こそはあの蛇である、と正体を明かす。そして近くの島 から地下海底につながる道を通り、海底宮殿で豊かな暮らしをおくることになった」。9年[5](5年[12])の歳月が経ち、蛇王との間に3人の息子と1人の娘も儲けた。故郷のことは忘れかけていたが、ある日長男に祖父祖母のことを問われて里心がつき、子どもたちを連れて帰郷尾したいと蛇王に頼み込んだ[5]。
3つの試練
蛇の王は帰郷を申し出たアーグレに対して実現困難な3つの仕事を帰郷の条件としたが、魔女[注 3])[注 4]の助力で達成した[16]。
3つの課業とは巻いても巻いても尽きることない真綿の一房か[注 5]ひと巻き[18] を絹糸に紡ぎ終えること、鉄靴[注 6]を履きつぶすこと、容器を奪われても焼き菓子(ケーキ[19])[注 7]を焼くことだった[21][22][19]。
絹の塊にはあきらかに魔法がかけられていたが[注 8]、焼き窯にいれると「礎の者」(ヒキガエル)が出てきて[注 9]、絹を糸にして出してくれたので紡ぐことができた。鉄靴は野鍛冶に焼なましを頼んだ。焼き菓子は、ざるに酵母種[注 10] [21]を敷いて水を汲める容器代わりとした[22]。
帰郷と結末
蛇王は迎えに行くときのために、自分を呼び出す呪文(後述)を教え、一時的に地上に戻ることを許可した[1]。
地上に戻ったエグレと孫たちを見た親たちは、もう海底宮殿には帰らせたくないと思うようになった。そして蛇王を呼ぶ呪文を聞きだそうと子供たちを痛めつけた。息子らは耐えたが、娘はこらえきれずにそれを喋ってしまった
- ジルヴィナス、ジルヴィナス
- 生きておるなら、海を乳で泡立たせておくれ
- 死んでおるなら、海を血で泡立たせておくれ[24]
騙されて海岸に呼び出された蛇王ジルヴィナスを、エグレの12の兄たちは大鎌でめった切りにしてしまった。知らされずにいたエグレが呪文を唱えると、海が地色になり、亡き夫の声がして真相が告げられた。エグレが宣言すると、3人の息子はそれぞれナラ、トネリコ、白樺に変化し、娘はわずかな風に震えるヤマナラシに変化してしまった。エグレ自身もトウヒの木に変化した[23][3][6][注 11][25]。
主人公エグレや子供たちが、変じた樹木の種類は、彼らの名前(のリトアニア語の意味)そのままである。すなわち、エグレ (Eglė) は針葉樹の「トウヒ」の意で、息子らの名は Ąžuolas「オーク」・「コナラ属」、 Beržas「カバノキ属」、 Uosis「トネリコ属」、娘の名は Drebulė 「ポプラ属ヤマナラシ」の意であった[3]。
出版歴
著作物としては、M. Jasevičiaus/Jasevičius が1837年、『Biruta』誌で発表したのが最初である[26]。のちリトアニアの詩人サロメーヤ・ネリスが1940年に「Eglė žalčių karalienė」として発表したものが有名である[3][注 12]。
またバレエではエドゥアルダス・バルスィース (Eduardas Balsys)[注 13]が1960年に「Eglė žalčių karalienė」として発表している[3]。いずれも題名は「蛇の女王エグレ」である。
話型
アールネ・トンプソン・ウター(ATU)による話型分類は425M「蛇の婿」[注 14](旧題「沐浴する娘の衣服を奪う」[注 15])であり[28][30]、ブロニスラヴァ・ケルベリティテによればリトアニアの類話(ヴァリアント)は120を数える[32][33]。
異本
この伝承は1880年にJ. Jasialaitisによって記録されたが、口述者は不明とされている。リトアニアの特に東部と南部に同様の民話が多数伝えられ、80余[34](新たな研究では上述の120余[32])が記録されている。国民の多くに親しまれ、文学や音楽の素材として繰り返し取り上げられてきた[34]。
異本では、変化する木の種類が違っていたり[35]、木ではなく鳥(特に鳥)へ変身するものがある[35]。鳥への変身譚は、リトアニア東部で採集されるとも[36]、隣国ラトヴィアにみられる傾向にあるともされ[22]、そもそも東スラヴに発祥するのではないかとの見解もある[37]。
脚注
注釈
- ^ Martinkus (1989), pp. 34–35, Parag. 3. リトアニア語: ežerėlis. フランス語: lac
- ^ Auksė (黄金)という名の姉[10]。
- ^ burtininkė。
- ^ 占い師の老女[15])。
- ^ リトアニア語: kuodelį>kuodelid. "bunch or roller of flax, tow, or wool for spinning".[17]
- ^ リトアニア語: "geležines kurpes".
- ^ リトアニア語: kiškio pyragasは、直訳「ノウサギのパイ」だがフランス訳ではブリオッシュの類とされる[20]。
- ^ Martinkus (1989), pp. 36–37, リトアニア語: užkerėtas. フランス語: ensorcelée.
- ^ Martinkus (1989), pp. 36–37 リトアニア語: pamatinę < pamatas "礎、基盤", and n3 in フランス語: "(crapaud qui habite) sous les fondations".
- ^ リトアニア語: raugu/raugas; フランス語: levain; 英語: leaven
- ^ 篠田(2008)編訳『世界動物神話』138-139頁のエグレはポプラの木に変化する。子供達が変化する木は種類は特定されないが、海風に吹かれては泣き声のような葉擦れの音を立てるとされている。
- ^ 1904年生まれのサロメヤ・ ネリスは1945年に若くしてガンで死んでいる[27]。よって「蛇の女王エグレ」はサロメヤ・ ネリス晩年の作品となる。
- ^ エドゥアルダス・バルスィースの生年は1919年、没年は1984年。
- ^ "The Snake as Bridegroom"
- ^ "Bathing Girl's garments kept"
出典
- ^ a b c d 篠田 (2008)編訳『世界動物神話』pp. 138-139.
- ^ 小沢 (1986)編
- ^ a b c d e Mačiulis, Jonas (1968). “The Four Eglė”. Lithuania Today (3): 64–65 . (alt link)
- ^ 原文はžaltys、でヨーロッパ各地では一般的な蛇種。この説話の英文解説でも"grass snake"とみえる[3]。
- ^ a b c d Martinkus (1989), pp. 34–35.
- ^ a b c Zobarskas, Stepas, ed (1959). “Egle, the Queen of Serpents”. Lithuanian Folk Tales. Brooklyn: G.J. Rickard. pp. 1–12
- ^ 小沢 (1986)編「蛇の女王アーグレ」、138頁
- ^ Macijauskaitė-Bonda, Jurgita (2023). “10. Folkloric Intertexts in Contemporary Literary Translations from Lithuanian to Italian”. In Ragaišienė, Irena; Rundholz, Adelheid. (Inter)Cultural Dialogue and Identity in Lithuanian Literature. V&R Unipress. pp. 257–258, n12. ISBN 9783847016151
- ^ 子豚やガチョウ[1]
- ^ a b Dundzila, Audrius Vilius (1991). Maiden, Mother, Crone: Goddesses from Prehistory to European Mythology and Their Reemergence in German, Lithuanian, and Latvian Romantic Dramas. University of Wisconsin--Madison. p. 213
- ^ a b M. M. Coleman による "Egle and Żaltis" 要約、ポーランド作家Józef Ignacy Kraszewskiの要約を基にしている[13]。
- ^ a b c L. W. Vallee による "Eglė and Žaltis" Erazm Majewskiによる Kraszewski 引用文を基にしている[14]。
- ^ Coleman, Marion Moore (1956). “The Mythological Element in Polish Culture The Lituhanian Contibution (2)”. Polish Folklore: A Bulletin from Alliance College 1: 39–40 .)
- ^ Vallee, Lillian Wereda (2003). Bear with a Cross: Primordial Tradition in the Work of Czesław Miłosz. 1. University of California, Berkeley. p. 23
- ^ 小沢 (1986).
- ^ 小沢 (1986)編「蛇の女王アーグレ」、138–141頁
- ^ Antanas Lalis (1903), Dictionary of the Lithuanian and English languages s.v. "kuodelid. -io"
- ^ フランス語: quenouillée; 英訳:"spindle of silk"[6]。
- ^ a b Kalik, Judith; Uchitel, Alexander (2019). Slavic Gods and Heroes. Routledge. pp. 97–98. ISBN 9781351028707 2018 e-book ISBN 9781351028684
- ^ Martinkus (1989), p. 176.
- ^ a b Martinkus (1989), pp. 36–37.
- ^ a b c Palmaitis, M.-L. (1992). “Roméo Moses and Psyche Brünhild? Or Cupid the Serpent and the Morning Star?”. In Paris, Catherine. Caucasologie Et Mythologie Comparée: Actes Du Colloque International Du CNRS, IVe Colloque de Caucasologie, Sèvres, 27-29 Juin 1988. Peeters Publishers. p. 178. ISBN 9782877230421
- ^ a b Martinkus (1989), pp. 38–39.
- ^ リンブルフ語: "Žilvine, Žilvinėli! Jei tu gyvas, pieno puta. Jei negyvas, kraujo puta".[23]
- ^ 小沢 (1986)編「蛇の女王アーグレ」アーグレが蛇の王の元へ戻るために呪文を唱えると、彼が生きていれば海面に牛乳の泡が湧き上がるはずだったが血の泡が湧き上がった。その泡から蛇の王の声が聞こえ、アーグレは事態を悟った。呪文を家族に話してしまった娘はわずかな風でも枝葉を震わせるポプラの木に変え、他の子供達は頑丈なかしわ、とねりこ、白樺に変え、自身はもみの木に変化した(144頁)。
- ^ Repšienė (2001), p. 23.
- ^ “Salomėja Nėris booksfromlithuania” (リトアニア語). Lietuviškos knygos. 2009年4月22日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 小沢 (1986)「本書の出典およびアールネ・トムソン『昔話のタイプ』との対応話型番号表」『世界の民話 33 リトアニア』p. 2.
- ^ Uther, Hans-Jörg (2004). The Types of International Folktales: A Classification and Bibliography, Based on the System of Antti Aarne and Stith Thompson. FF communications 284. Suomalainen Tiedeakatemia, Academia Scientiarum Fennica. p. 255. ISBN 9789514109638
- ^ Uther の ATU 425M 説明に、英語の新題と旧題名あ記載される、リトアニア版がKerbelytė (1999)にあるとする[29]。
- ^ Kerbelytė, Bronislava (1999), Lietuvių pasakojamosios tautosakos katalogas, 1, Vilnius: Lietuvių literatūros ir tautosakos institutas, pp. 202–205, ISBN 9781351028707
- ^ a b Kerbelytė (1999)[31] apud Macijauskaitė-Bonda (2023), p. 259.
- ^ Aarne, Antti; Thompson, Stith. The types of the folktale: a classification and bibliography. Folklore Fellows Communications FFC no. 184. Helsinki: Academia Scientiarum Fennica, 1961. p. 144.
- ^ a b 小沢 (1986)「解説」『世界の民話 33 リトアニア』p. 362.
- ^ a b Lūvena, Ivonne (2008). “Egle — zalkša līgava. Pasaka par zalkti — baltu identitāti veidojošs stāsts [Spruce – the Bride of the Grass Snake. The Folk Tale about Grass Snake as a Story of Baltic Identity]” (ラトビア語). Latvijas Universitātes raksti (Rīga: LU Akadēmiskais apgāds) (732 Literatūrzinātne, folkloristika, māksla): 15 .
- ^ Vėlius, Norbertas (1983). Senovės baltų pasaulėžiūra: struktūros bruožai [The World Outlook of the Ancient Balts]. Vilnius: Mintis. pp. 101–102
- ^ Kabakova, Galina (9 July 2019). “Le projet du Dictionnaire de motifs et de contes-types étiologiques chez les slaves orientaux”. Revue des études slaves LXXXIX (1–2): §30. doi:10.4000/res.1526 .
参考文献
- 小沢俊夫編 編「31. 蛇の女王アーグレ」『世界の民話 33 リトアニア』虎頭恵美子訳、ぎょうせい、1986年2月、137–144, 362頁。 ISBN 4-324-00062-X。NDLJP:12445941。
- 篠田知和基『世界動物神話』八坂書房 、2008年9月25日。 ISBN 978-4-89694-918-6。
- Martinkus, Ada (1989) (li, fr). Eglé, la reine des serpents: Un conte lithuanien. Paris: Institut d'Ethnologie. ISBN 9782307380054
- Repšienė, Rita (2001). “Eglės pasaka: populiarumo transkripcijos [Eglė's tale: transcriptions of popularity]”. Gimtasis žodis (1): 20–23, 46 . (Abstract)
- Swahn, Jan Öjvind (1955). The Tale of Cupid and Psyche. Lund: C.W.K. Gleerup
関連項目
- 蛇の女王エグレのページへのリンク