藤枝方孝とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 藤枝方孝の意味・解説 

藤枝方孝

(藤枝重昌 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/22 02:30 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

藤枝 方孝(ふじえだ かたたか、生年不明 - 元禄14年2月6日1701年3月15日))は、江戸時代中期の旗本甲府藩甲府徳川家家老は初め重昌、後に方孝。通称は喜内。官名は摂津守、丹波守、日向守。父は岡部重家(弥七郎、八左衛門)[1]、母は木村重家(源右衛門)の妹。姉は順性院、妻は池田重政の養女(西尾盛教の娘)、子は藤枝方教(帯刀、若狭守)、立花種成(弥兵衛)室。石高2000石。

生涯

岡部忠澄(六弥太)の後裔と藤姓を称し、家紋を左巴とする[2]。父は京都の人で岡部氏を称しているが、同じく甲府藩の家老であった岡部定直(出羽守)との関係は不詳。3番目の姉は将軍徳川家光側室で甲府藩主徳川綱重の生母である。方孝は綱重の叔父徳川家宣の大叔父にあたる。また方孝の代で藤枝氏に改姓する。

徳川家光に仕官して、綱重の小姓として江戸城三の丸で勤め、慶安元年12月11日1649年)に月棒30口を賜る。

甲府藩奏者番となった後、明暦元年(1652年)に甲府藩家老に就任し、同年12月22日には従五位下摂津守に叙任する。寛文元年閏8月11日(1661年)に1000石加増されて、合計で甲斐国信濃国に2000石の知行を領する。

元禄14年(1701年)2月6日に死去する。法名は日養、墓所は浅草幸龍寺。子の方教が家督を継ぎ、方教の代で江戸幕府旗本寄合席となる。

脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 寛政重修諸家譜
  2. ^ 寛政重修諸家譜。同時に小野姓岡田氏と考察する一方、家紋と藤原姓を称していることから藤原姓で収録したとしている。

参考文献

  • 『新訂寛政重修諸家譜 第22』(続群書類従完成会、1966年(昭和41年)初版)
    • 寛政重修諸家譜 巻千四百六十一



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  藤枝方孝のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「藤枝方孝」の関連用語

藤枝方孝のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



藤枝方孝のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの藤枝方孝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS