藤枝方教とは? わかりやすく解説

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藤枝方教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/06 09:21 UTC 版)

藤枝 方教(ふじえだ まさのり[1]明暦4年(1658年[2] - 享保11年9月25日1726年10月20日))は、江戸時代中期の甲府藩甲府徳川家家臣で後に江戸幕府旗本寄合席は方教。通称は帯刀。官名は若狭守。隠居は相義。父は藤枝方孝。母は某氏。姉に立花種成室。正室は戸川安成(助七郎)の娘。伯母順性院がいる。子は藤枝豊忠(帯刀)や徳山秀栄室など2男2女。立花直時

生涯

伯母は将軍徳川家光の側室で甲府藩主徳川綱重の生母、父は明暦元年(1652年)に甲府藩の家老に就任している。

寛文10年3月10日1670年4月30日)に徳川家綱に初御目見えをする。元禄14年(1701年)に父の死を受けて家督と高2000石を相続し、元禄15年12月18日1702年2月3日)に従五位下若狭守を叙任される。

宝永元年12月5日1704年12月31日)に甲府藩主から徳川綱吉の養子となって江戸城西の丸に入った徳川家宣に従い、同年12月12日(1705年1月7日)に江戸幕府旗本寄合席に転じる。翌宝永2年1月7日1705年2月1日)に武蔵国相模国のうち高4000石を知行する。

宝永7年(1710年)刊行の一統武鑑では、江戸幕府寄合に「四千五百石 藤枝若狭守 父日向守 ゆしま天神下」と記載されている。

享保6年6月25日1721年)に隠居し、享保11年(1726年)に死去。享年69歳。法名は日源。墓所は浅草幸龍寺

脚注

  1. ^ 読みは寛政重修諸家譜より
  2. ^ 寛政重修諸家譜にある享年からの逆算

参考文献

  • 『新訂寛政重修諸家譜 第22』(続群書類従完成会、1966年(昭和41年)初版)
    • 寛政重修諸家譜 巻千四百六十一
  • 『改定増補 大武鑑 上巻』(橋本博、1965年、名著刊行会)



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