藤原興範とは? わかりやすく解説

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藤原興範

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/08 10:05 UTC 版)

 
藤原興範
時代 平安時代前期
生誕 承和11年(844年
死没 延喜17年11月1日917年12月17日
別名 字:常生
官位 正四位下参議
主君 清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇醍醐天皇
氏族 藤原式家
父母 父:藤原正世、母:山背氏娘
兄弟 真房、興氏、真湛、興範
藤原有恒娘
公葛
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藤原 興範(ふじわら の おきのり)は、平安時代前期の公卿中納言藤原縄主の曾孫。因幡介藤原正世の九男。官位正四位下参議

経歴

清和朝貞観15年(873年文章生に補され、大宰少監大舎人大允式部丞民部丞を経て、陽成朝末の仁和3年(883年従五位下掃部頭に叙任される。同年筑前守に転じると、宇多朝では豊前守・筑前守・大宰少弐と長く九州の地方官を務めた。

醍醐朝に入り、昌泰3年(900年右中弁に遷り、翌昌泰4年(901年正五位下に叙せられるが、延喜2年(902年従四位下・大宰大弐に叙任され、再び大宰府へ赴任する。延喜7年(907年右京大夫として京官に復すと、式部大輔を経て、延喜10年(910年)従四位上に昇叙された。またこの間、延喜7年(907年)完成の延喜格の編集に参加した。延喜11年(911年正四位下参議に叙任され公卿に列すが、再び大宰大弐を兼帯してまたもや大宰府へ赴任する。

延喜16年(916年)大宰大弐から弾正大弼に転じて帰京し、翌延喜17年(917年近江守も兼帯するが、同年11月1日卒去享年74。最終官位は参議正四位下行弾正大弼兼近江守。

官歴

注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

  • 父:藤原正世
  • 母:山背氏
  • 妻:藤原有恒の娘
    • 男子:藤原公葛

脚注

  1. ^ a b 『日本三代実録』

参考文献




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