落馬説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:52 UTC 版)
建久9年(1198年)、重臣の稲毛重成が亡き妻のために相模川に橋をかけ、その橋の落成供養に出席した帰りの道中に頼朝が落馬したということが『吾妻鏡』に記されており、頼朝の死因として最も良く知られた説である。しかしその話が『吾妻鏡』に登場するのは、頼朝の死から13年も後のことであり、その橋が壊れて地元民が困っていたが、頼朝の落馬から縁起が悪いとずっと放置されていたという内容である。死去した当時の『吾妻鏡』には、橋供養から葬儀まで、頼朝の死に関する記載が全く無い。これについては、源頼朝の最期が不名誉な内容であったため、徳川家康が「名将の恥になるようなことは載せるべきではない」として該当箇所を隠してしまったとする俗説があるが、『吾妻鏡』には徳川家以外に伝来する諸本もあり、事実ではない。また、『吾妻鏡』に記されているのは頼朝が落馬してから間もなく亡くなった(ため縁起が悪い)ということで、必ずしも落馬が原因で死亡したとは書かれていない。
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