臼杵才化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/08 09:59 UTC 版)
臼杵 才化 | |
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生誕 |
1876年(明治9年)1月31日 三重県安濃郡草生村(現・津市) |
死没 | 1917年(大正6年)12月13日 |
国籍 |
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研究分野 | 小児科学 |
研究機関 |
東京帝国大学![]() アダルベルト・チェルニー小児科教室 台湾総督府医院 |
出身校 |
東京帝国大学 医学博士 |
主な受賞歴 | 従六位、勲八等 |
プロジェクト:人物伝 |
臼杵 才化(うすき さいか、1876年(明治9年)1月31日 - 1917年(大正6年)12月13日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の医学者・小児科医である。東京帝国大学卒、医学博士。
略歴
- 1876年(明治9年)、三重県安濃郡草生村(現・津市)川本家に生まれる。
- 1892年(明治25年)、17歳で三重県一志郡榊原村谷杣(現・津市榊原第5区)臼杵家28代、漢方医臼杵玄貞の養子になり、29代となる。
- 1895年(明治28年)、津市尋常中学校卒業。
- 1898年(明治31年)、第四高等学校(現・金沢大学法文学部)卒業。
- 1902年(明治35年)、東京帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)卒業、医学士。東京帝国大学付属医院小児科、弘田長教授の許で研究に従事。
- 1905年(明治38年)、東京女子医科大学で小児科講義始める。
日本統治時代の台湾総督府医院小児科医長、台湾総督府医学校教授に任ぜられる。
- 1906年(明治39年)、台湾総督府医院小児科診療を開始。正七位叙位。
- 1907年(明治40年)、ドイツ、ブレスラウ大学(現・ポーランド、ヴロツワフ大学)に官費留学を命ぜられる。現代小児科の創設者の一人、アダルベルト・チェルニー(w:Adalbert Czerny)教授の許で研究に従事。
- 1910年(明治43年)、ドイツから再び台湾総督府医院小児科に戻り、一時期院長を務め診療研究に従事。台湾小児科医療の基礎を築く。従六位勲八等叙位。
- 1913年(大正2年)、官を辞して日本へ帰還する。
東京帝国大学より医学博士の学位を授与される。正論文『生理的並びに病的関係に基ける哺乳児腸内に於ける脂肪の運命』。
30代臼杵仁(長男)(昭和20年12月10日没)も同墓地。31代臼杵薫(次男)(昭和37年3月10日没)は三重県尾鷲市、金剛寺。(28代臼杵玄貞までの先祖の墓地は、三重県津市榊原、海泉寺にあり永代供養されている)
- 臼杵才化の血縁直系子孫は、孫、曾孫、玄孫、来孫まで存在する(2019年時点)。しかし孫の代が女系であった為、直系臼杵の姓は31代をもって消滅した。
主な著書・論文
- 『児科処方新書 全』(豊田鐵三郎・臼杵才化・唐澤光徳共著)出版
- 『小児科学』(臼杵才化著)出版
- 『医学中央雑誌』
- 『台湾医学会雑誌』
- 『中外医事新報』
参考文献
- 『宮内省敷位典蔵総合目録』
- 『日本近現代医学人名事典』
- 『大正人名事典』
- 『台湾総督府府報』
- 『台湾総督府文書目録』
- 『台湾小児科発展史』
- 『学位録』
- 『東京女子医科大学八十年史』
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