肥後郷士(熊本藩)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 13:54 UTC 版)
実際の名称は郷士とは言わず在中御家人と呼ばれた。農村行政等の必要性から前領主、小西・加藤氏の帰農遺臣や土豪に士格を追認したのが始まりで、これは他藩と同様である。また、足軽を帰農させ、軽格の「郷士」として苗字帯刀を許し、国境・辺境警備に当たらせた。こうした例に「地筒・郡筒(じづつ・こうりづつ)」の鉄砲隊があり、これは無給に等しい「名誉職」であった。実際、鉄砲隊とは名ばかりで、地役人や臨時の江戸詰め藩卒として動員されたりした。逆に、好奇心旺盛な郷士の子弟は、それらの制度を利用して、見聞を広めるために江戸詰め足軽に志願することもあった。 江戸時代中期以降、熊本藩は献金に応じて郷士格を乱発する傾向となり、昇格する格式によって金額まで定められ、藩の収入の一部ともなり「寸志御家人」として制度化された。それによって与えられる身分は、「一領一匹」と「地士」以外は概ね「足軽格」程度であり、献金郷士は「カネ上げ侍」と陰口され、明治以降もそれらの子孫で士族となった者は「カネ上げ士族」といわれた。
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